任那の故地奪還計画

倭 仁大君の即位2年目に倭国に
表敬訪問を兼ね、故地の扶餘奪還
計画の話し合いに来た金 仇休。

倭 旨の次男、金 仇休(天日槍)

新羅国の大人達は、倭や加羅の傀儡王
達の行動に疑念を抱き、自国の傀儡王
に加わらぬ様に求め、足並みは乱れ始
めます。

金 仇休は、殺害され三男の末休に
傀儡王が任されます。

新羅王族系譜

扶餘 依羅(倭 旨)ー金 末休ー奈勿

日本海側の出石町には古代朝鮮
の新羅の王子天日槍アメノヒボコの渡来
伝説があり大変興味深いです。

豊岡に流れ着き、大陸から鉄などを齎し
治水事業に尽力し泥海だった豊岡盆地
が肥沃な土地に変わったと伝えます。

兵庫県出石町の袴狭ハカザ遺跡で、古墳時代
前期の長さ197.3センチ、幅16.2センチ、
厚さ2センチの長大な杉板に、線刻画で
大小16隻の準構造船が描かれていました。







船団の船が描かれた木製品が 
見つかったのは初めてですが、
豊岡から円山川を15km遡る
場所です。

新羅には、延鳥郎ヨンオランと、細鳥女セオニョ
の伝説も在り、日本の人々は、国王と
貴妃にした、と言います。



魏志倭人伝から見えた邪馬台国への
最も合理的なルート 播田 安弘氏拠り

当時は朝鮮半島から日本を目指すには、
多大な危険を孕む九州を目指すより、
山陰を目指す方が遥かに楽で、自然に
到着する事が出来るそうです。

https://gendai.media/articles/-/96875?page=6 


脱解王は多婆那タナバ国で生まれた。
(三国史記)
日本海側の但馬・丹波に比定されます。

海から船を変え、川を遡り
瀬戸内海側に出て畿内に入
る可能性も有ります。

瀬戸内海が出来たのは、4世紀です。

大倭から、太宰府への所要日数
が、倭人伝の奴国から邪馬台国
への日数が同じです。



邪馬台国と魏の使者が、瀬戸内海を
使えたとしても有名な瀬戸の夕凪
では潮の速さに流されて、制が非常
に難しく、干満差も大きく、島や浅
瀬も多いので、当時の船では航行が
困難と思われるそうです。