津守 乎已志水死し、嘆く讃大君に
彦佐須伎大人は東南を望みて、
三度、「東(吾嬬)アヅマハヤ」との給う
と有りますが、「早く討伐をせよ」
と言う事で、行われた討伐ですが。

大漢国征伐は最終的に、代表が最後の
協議を行い、制裁処罰されず公平な
人材登用を行う事を条件に帰服します。

大漢国の後裔には、波多野、福岡、猪飼
氏等が有ります。後年、扶桑国の王は
讃州(讃岐)に移動します。

日本武尊が、意識が朦朧
となり病身になった理由は

倭 讃大君自身は、和睦の後に八名郡 、
鳥捕山(南麓に過去大伴神社存在)の
西側に所謂高千穂宮を建設し、3年に
渡り不老不死の仙薬を研究、調合試飲
し水銀中毒と為り死期を悟り、陸路を
内津湊へ向かいます。

天香具山が見えて来ると、有名な歌を
歌われ、水を所望(愛知県日進市 ケカチ)
し、飲み、正気を取り戻し進みます。

倭は、国の真秀マホろば、
たたなづく青垣、
山隠れる、倭し、うるはし

大和は国のなかでももっともよいところだ。
重なりあった青い垣根の山、その中に
こもっている大和は、美しい

実際には、大和で無く御春です。

神屋カギヤは、仮殿で、休憩された神の
休まれた家から、神屋と言い、香具山の
音を変え端折った地名です。

その際、手を洗われたところを御手洗ミタラシ
と言われて居ります。

過去は綺麗な湧水が冬も渇れることなく
流れ出て居り、この湧水は信仰と結び付き、
昔からこの水で目を洗えば眼病は治り、手を
洗えば皹も直ちに治るとされてました。

容態急変して亡くなります。

大倭から、君(妻)や子等が来て、倭 讃大君の
遺体と共に内津湊から京への帰途に着きます。

浜つ千鳥 浜よは行かず 磯づたふ

浜千鳥のように、あなたの魂は私達が
追い掛け易い浜辺を飛んで行かず、
磯づたいに飛んで行かれるのですね

と詠んだ歌は「大御葬歌」
の一つになります。

道教を信奉した倭 讃と建の死因

煉丹術(錬丹術•外丹術) 不老不死等の霊効を持つ
仙丹(金丹)を錬る錬金術で、丹薬や金丹の生成
する目的で、仙道の求道者、不老不死の探求者
が、仙薬を服用して水銀中毒になる、等の事例
も多かったのですが、2人もそうでした。

倭 建の母、佐富女王(大君)と姪の道子
(額田王、斉明天皇)女王の道教崇拝は、
有名です。



倭 建天皇の和風諡号が、天淳中原瀛真人で、
淳中原(沼の中の原で開拓し)飛鳥浄御原宮
の都を造成工事した事、瀛真人(瀛州は東海
に浮かぶ神山の一つ)で、道教の聖地です。