豊橋市

牛窪記には、本宮山(岡崎)下に秦(徐福後裔の)
が多いと書かれています。
豊葦原(葦毛湿原)の隣接地域の、平原広沢の
地に多かったのです。

文林郎で、裴 裴著の子世清が、遣隋使の
答礼使として派遣された際に、竹斯(筑紫)国
から東へ進み、案内され「そこの人々は華夏
人(中国人)と同じで、夷州の地と言われるの
は理解出来無い」と記している場所です。

夷州の地とは、琉球国ですから、
無理も無いです。

神仙思想の地の瀛洲山(石巻山)には、
薬草が沢山自生してました。  
石巻山石灰岩地植物群落は、
史跡名勝天然記念物。

麓には、夏王朝開祖の禹王の誕生地と

同じ地名の嵩山に蛇穴が在ります。

豊橋市日色野町では、秦氏(徐福後裔)
の先祖は、中国から熊野に渡来し、
熊野からこの地方に来た」という伝承が在ります。

東海三神山を目指した徐福の一向
3000人の中での有力者の当初の分散。

本宮一円 528人 徐福と子等、福永、徐万、福寿等
新宮一円 60人 徐福の子、福万が久真野(熊野)命名

三神山の蓬莱山の不二

「徐福(役行者)が、富士山の頂上に登った
そうだ。 その後に登る者は皆、山腹に額
をつける様に、攀じ登っている」

噴火で山体崩壊し、カルデラ湖も決壊して、
優に1千m以上高さも失って仕舞いました。
現在の鳳来寺山で、道教の聖地、東海三神山
の蓬莱山でした。造園業者が使う様な梯子の
形をした急峻な角度の山だったのです。



珠流河(駿河)国の富士山

富士山記 (都 良香)

「山の東の脚の下に、小山有り。土俗これを
新山と謂ふ。本は平地なりき。延暦廿一年三月に、
雲霧晦冥、十日にして後に山を成せりと。
蓋し神の造れるならむ」


「富士山の東の麓に小山があり、土地の者は
「新山」と呼んでいる。元々は平地だった。
801年3月に雲や霞が立ち込め、10日間で
山ができた」と言います。

745年は東海三神山の地(東三河)の三本足
の烏(鵜と鵜飼の鵜匠を指す)が稲葉(長良)川
へ移動しました。

豊橋市日色町 最古の徐福石像存在

垂れ下った衣に頭の被り物、手には巻物を持った
明らかな中国風の石像で、顔が殆ど判別出来無い
程、長年の風雨によって摩耗してます。


東海三神山の瀛洲(石巻山)の南、烏の鳥屋(鵜=烏。
宇陀の高城、雲谷ウノヤ)に本陣を置いた大漢国軍に
対して彦佐須伎(佐野命)は高倉山より指揮。

息子彌母里別が小部隊で、敵の別動隊と衝突して、
彦佐須伎は敵の別動隊を挟撃し、勢い敵本陣を
打ち崩し、蹴散らし、鵜田切(宇陀切の地。
現豊橋市内)迄、追撃されます。

新城ニイキ(現シンシロ)の東、引佐山での最終戦は
持久戦と為り、鵜飼島*より食糧調達で乗り
切りますが、決定的な勝利とは為らず和睦します。

*烏(鵜)を飼う人々でも有り、中国歴史書にも東海畔に
変わった鳥の居る事が、紹介され三本足の烏とは、
黒装束の三人組の鵜匠と鵜飼達の事です。
養蚕や絹織物を生業にしても居りました。

戦後、東海三神山の地を沖合から見た倭 讃大君

は、ここは浮島かと言われます。捕鳥山麓に
仙穂(高千穂)宮を建設し居住します。