邪馬台国を建国した弥生人達も徐福と
同族であり、邪馬台国から、旧東山道
を経由して、船を使い文身国*を中継して、
船で君子国(大漢国)へ向かいます。


水軍の本拠地(氷上邑)の在る火高見国の常世島が、

弥生時代には、文身国でした。


蓬莱島の隣りの松炬(松姤)島
陸地化した際に内陸部に入った海水が、
押し寄せ半島の先を寸断して仕舞います。
南北3km.東西1.5kmの島になります。



口伝を共有し、共に道教を信奉して、
東海三神山の地の三神山に登仙しました。
神仙思想の地の瀛洲山(石巻山)には、薬草
が沢山自生してました。

麓には、夏王朝開祖の禹王の誕生地と
同じ地名の嵩山に蛇穴が在ります。

方丈山(本宮山)の麓には、牛の滝が在り、
往古の神事に、殺牛殺神という生贄行事
があります。

東海三神山の地
豊川市、新城市



豊川市の豊川は、古代律令制の三河国宝飯
郡豊川郷に由来しています。宝飯郡に関し
ては、大漢国から大倭王朝の直轄地から
穂国、三川国穂評、一字は好ましく無い、
とされた8世紀の律令制以降は、寶飫ホオ郡で
寶飯ホイ郡、現在の宝飯郡に変遷します。

豊に関しては、豊国の倭 文世(宇佐氏同族)
が、穂国に任命され、文世(菟上足尼命)の子、
佐雄(凡海 麁鎌)が、大海で、幼少期に隠棲
した建天皇(天武天皇)を幼少期に支えた
(壬生)事から、豊が使われています。

倭 建天皇の壬生系譜

御春 豊玉ー小船ー安山ー倭 冝坂ー
長野ー武雄ー佐野ー文世(穂国造)ー
佐雄(凡海 麁鎌)ー建雄ー清雄ー
保恒ー凡海 保平

建の隠棲に同行し、下向した邇波 広高
(秦 河勝)の子、良世(菟上足尼命)とも
事績を分け合います。

秦 河勝系譜

邇波 彦佐須伎ー彌母里ー荒田(神武•神功皇后•
大荒田別)ー塩古(邇波縣君)ー角古ー広高(秦 河勝)
ー良世ー忠叙ー忠貞(太秦嶋麿)ー菅原 清貞(清公)

古事記に朝廷別王は、三川の穂別の祖と記載され
ていますが、穂別の別は、古代の姓カバネの一つで、
皇族出身者が地方に下り、地名を冠して用いたの
が初めと有ります。 皇族とは書かれてますが、
実質王が輩出される豪族に当て嵌ります。

大君(天皇)家と接続されてますので、
ややこしいのです。

穂に関しては、徐福が持ち込んだジャポニカ種
の米に加えて、湿地帯に生息する葦の根から、
水酸化鉄の採取出来る葦にも関係してます。
水の中で作業をする人を河童と呼びました。
豊葦原瑞穂国と呼ばれる所以です。

不二の蓬莱山(鳳来寺山)の南方の方丈山(本宮山)
の麓に、新宮の在る紀国の古座から移り住んだ
徐福の子孫が、手間戸湊から、柏木浜に上陸し、
繁栄し、秦氏(徐福後裔)を名乗っていたとの
伝承が存在します。