実際の一休とは



源 幹仁モトヒト(後小松)天皇の子では無く、幹仁天皇の
兄弟で、源 緒仁(後円融)天皇の第第二皇子で、しかも
東宮(皇太弟)でした。 母は藤原 今子。

一休 宗順(宗純)は、実際には道朝法親王と言います。
道朝法親王への敬意から「法の御曹司」と述べた
客人(天皇要請)に言った言葉(擁立には応じず)は・・・

「女をば 法の御蔵と 云うぞ実に 釈迦も達磨も 
ひょいひょいと生む」

「後円融」天皇の第2皇子。
母は藤原 今子。

16歳の時、屠蘇を飲む御薬という新年
祝賀行事の最中に妹の、珪子内親王を
蹂躙する事件を起こしてます。

父の勘気を被り、御所を逃げ出してます。

森侍者

森女=津守の女(娘)であり、王孫と言われ源 憲良
(後村上)天皇の子、南朝最期の天皇の源 煕成
(後亀山天皇)の孫娘でした。

南朝の最後の天皇だった源 熙成(後亀山)天皇
の孫、尊子女王(森侍者)。

尊子女王の父、良泰親王(小倉宮聖承)

1414年(応永21年) 伊勢国司北畠 満雅は明徳の
和約が無視されている事で、挙兵し良泰親王を
奉じ、幕府に両統迭立の順守を要求する。

1428年(正長元年)満雅の2度目の挙兵で戦死、
その跡を継いだ教具から、幕府と和睦したいと
支援に難色を示され1443年(嘉吉3年)5月7日
良泰親王は死亡します。

源 煕成天皇が、北朝の源 幹仁(後小松)天皇に、
三種の神器を譲り渡し、南北朝の合一と成ります。

南朝の系統は、山伏とも深く関わり山伏の本山、
京都の聖護院や熊野の天河神社も
森御殿と呼ばれてました。

一休宗順(宗純)と森女は、共に、天皇の血筋でした。

津守氏と関連し、住吉神宮の宮司の一族で、巫女
として舞楽を演ずる女性でした。

森女は目的があり堺から薪村に一休を訪ねます。 
立場を弁え無い(盲目の)女性と侮辱されてますが、
瞽女(ゴゼ女性の盲人芸能者)でも先導して、世話を
する目明きの者が付き添い旅をしてますから当然、
お供の者が同行していたと考えるのが筋です。

一晩で去って行きます。  住吉神宮との縁が出来、
大徳寺に入山する事になり腐敗堕落した大徳寺を
本来の禅寺に戻す事になった様です。

篤志家からの善意の布施で集め応仁の乱で焼失
していた大徳寺再建しますが、薪村で尺八を吹き、
森女の膝枕で大往生したと言う事です。

「門松は冥土の旅の一里塚 めでたくも
あり めでたくもなし」

正月の京の町を練り歩き
手には竹竿を持ち、その竿の先に人間の髑髏を
刺していた。 過激ながらも終末思想の極楽浄土
が来ると宣伝してましたが、現代は本当に
その必要性の有る危機的な時代です。