邪馬台国に続く徐福後裔の大漢国征伐

津守 乎已志水死後

急遽、将軍を務める倭 (大伴) 乎多氐(武持)

天香具山で、扶餘王族の上陸地を

眺め(国見)天神に感謝をして鹿の
犠牲を捧げ、祈ります。

更に内陸の海を渡り、御春(丹生川上#•尾治•

高尾張山。現、守山区東谷)山で、土着の
神を祀ります。

東征軍は陸路、海路と分かれて東に向かい、
倭 讃は御春水軍で、佐奈伎山麓(現、豊田
市猿投山)より上陸して、陸路を進軍します。

池鯉鮒(知立)で、平定祈願しました。

御春水軍は、海上を東海三神山の地へ
進軍し、従軍した者の中に、香具山の
浦嶼 金も含まれます。

先導は、大将の大人邇波 彦佐須伎
(八咫烏)がします。

東海三神山の国の大漢国(現豊橋市)と
扶桑国に対して音羽山より、連合国家
拡大の為に使者を派遣。


東海三神山の方丈(本宮)山


東海三神山の瀛州(石巻)山


東海三神山の蓬莱(鳳来寺)山


# 邇波から丹生は、製鉄を生業とし、
朱丹を使った事から。

川上とは、陸上化した時代以降の地勢から
熊襲 建、川上 梟帥が創作がなされますが、
邇波 明国彦(長髄彦)が元に為ります。

将軍大伴 乎多氐(道臣、武持)は、鳥捕山
(聖書の「鳥を捕らえる者」より、鳥は
弥生人を表す)の麓の邑で、大漢国と
扶桑国の首脳と酒宴の席で交渉し、扶桑
国は恭順、大漢国は、徹底抗戦を決め
開戦に為り石弾子、斧と鉞マサカリを使用
します。