壬申革命戦の最前線の野上行宮

白村江の敗戦処理として、伯済遺民が
支援する友の息子、大友を巡り起きた
戦争で有る壬申革命戦。

倭 建の前線基地に選ばれ、急遽造営された
野上行宮は、尾治水軍の統率者尾張 若子の
私邸で、味蜂間の海の島に有りました。 

建の息子稚建は、島の対岸に有る和蹔
ワザミ(和射見)の地から野上に父、建を
出迎え敵の情報を伝えました。

尾治 多々見は、622年に倭 建の父、
聖大君の軍に加わり戦死して居ります。 

尾治 多々見の息子若子には、
壬申革命戦は弔い、合戦でも有りました。

東軍は、道教徒の建と大国主の祖エドム
の一体感で、絳旗(赤い旗)を掲げ、赤を
衣の上に付けて印としました。

最前線の指揮を長子の、倭 稚建(高市皇子)
に任せ、建は、広野(持統帝)と建韓(草壁皇子)
、出雲 頼兼(中臣 大嶋)と共に騎馬の出動の為
に遠州鹿沼、科野国造の洩矢 宮萬呂を大将に
迎え、出陣を要請し三川の宮路山に本隊として
布陣しましたが、当時の要衝でした。

出雲 頼兼は、友の娘、建の妻の1人、
広野の息子の建韓(草壁皇子)を宮道山
で殺害します。

後年、反対されたものの702年10月死の
間際に広野は三河に向かい、夫建の幼少
時代の隠棲地を訪れ、息子建韓の墓を
宮路山に建てさせました。

出雲 頼兼の父、山邉 安萬呂(山部王、
蘇我 果安)は西軍を撹乱します。

壱志(十市皇女)大君は、東軍に
内通して居りました。

壱志大君は、建の娘で、
大友の妻になって居り葛野の母親です。
(訂正します)

勝利報告を受けて、建等は、御津湊から
野上行宮を経由して、和蹔、東山道から
凱旋し、初の天皇として建は天皇の位に就きます。

飛鳥浄御原宮 (奈良県明日香村飛鳥板蓋宮跡)


遺跡は立派な石敷きで、ペルシャ帝国の影響
を彷彿とさせたそうです。 当時ペルシャは
スサと呼ばれて居ましたが、素戔嗚も此処
から創作をされ、スサの王で、蚩尤伝説
(兵主)と入れ替えられています。

御春水軍の統率者系譜

倭 旨―御春 豊玉(塩見公)―小舟―安山―宜坂
(珍彦。倭 復姓。大倭国造の初代。 御春水軍は
初代国造尾治 栗原に移管)

尾治水軍統率者系譜

倭 得玉―浦嶼 弟彦―金―坂合―
草香―尾治 栗原―多々見(田簑)―
尾張 若子(大隅)ー乎己志(愛智郡大領)
―乎機与―海部 浜子(籠神社宮司家)

丹後国の籠神社(丹後一宮 元伊勢 籠神社)
の宮司家と入れ替わりをして居ります。