前回からの続き

蔓木 摩理勢(蘇我 馬子)の娘小手子が、
峻(崇峻)の君(后)だと判りました。

その小手子が産んだのは、蜂子ハチノコ皇子
と錦代ニシキテ皇女と記されています。

御子と呼んでいた時代に皇子や皇女
とされていた事には、不信感を覚えます。

何故ならば原本を忠実に写本して、脚注
に補足を加えれば良いだけの筈だからです。

一代限りの倭 建(天武)天皇の天皇号の
成立と共に皇子の字が宛られます。

律令制が施行され、天皇の子女の
身位として親王号や内親王号が、
定着しますと、特定の皇族子女
の呼称としての皇子や皇女は、
使用されなくなります。

御野(三野)の味蜂間(安ハ麿)は
大君の産土の地で、蜂子

蜂子ハチノコ皇子の蜂子は、天皇の子
を指し、意味を重複させて居り創作
され実名では無いと暗に示唆してます。

記紀や伝承から割り出す考え方

崇峻天皇5年(592年)に崇峻天皇が暗殺
された際に、聖徳太子によって匿われて
丹後より北陸路を北へ進んだとされて、
聖徳太子が関与したとされています。

羽黒修験道の基盤となった蜂子皇子
は、聖徳太子自体が日本の仏教で尊
崇の対象となった事から、その威容
を借りた創作と理解出来、不名誉な
死を遂げた崇峻天皇の子から、外さ
れた事が判ります。

自分で自分を助けると言う不可解
が出て来ました。

日本書紀で、継体天皇は越前から迎えた。
古事記では、 近江から迎えたとなってい
ますが、実際には、倭 峻大君 の息子、
聖大君です。

 父が蔓木 摩理勢に殺害され、越前国高向
(現在の 福井県坂井市丸岡町高椋)に隠棲
する事になります。 

 聖は徳の有る人物と為りました。

片岡飢人(者)伝説

飢えた人が道に臥していた。姓名を問われ
ても答えない。太子はこれを見て飲み物と
食物を与え、衣を脱いでその人を覆って
やり、「安らかに寝ていなさい」と語り
掛けたと言います。

翌日、太子が使者にその人を見に行かせ
たところ、使者は戻って来て、「既に死
んでいました」と告げた。太子は大いに
悲しんで、亡骸をその場所に埋葬してや
り、墓を固く封じた。

数日後、太子は近習の者を召して、
「あの人は普通の者ではない。真人に
違いない」と語り、使者に見に行かせた。
使者が戻って来て、「墓に行って見ました
が、動かした様子はありませんでした。
しかし、棺を開いてみると屍も骨もありま
せんでした。ただ棺の上に衣服だけが
畳んで置いてありました」と告げた。

太子は再び使者を行かせて、その衣を
持ち帰らせ、いつものように身に着けた。
人々は大変不思議に思い、「聖は聖を知る
というのは、真実だったのだ」と語って、
ますます太子を畏敬した。
と、有ります。

福音書ヨハネ19:38〜42参考 
「こうした事の後、アリマタヤのヨセフがピラト
に、イエスの体を下ろさせて欲しいと頼んだ。
ユダヤ人達を恐れて密かにイエスの弟子となって
いた男性で ある。この男性はピラトの 許可を得る
と、行ってイエスの体を下ろした。 以前夜に、
イエスの所に来たニコデモも、没薬と沈香を混ぜ
合わせた物を30キロ程持ってやって来た。  
40 こうして彼らはイエスの体を受け取り、葬る
際のユダヤ人の習慣通り、香料と一緒 に亜麻布に
包んだ。  41 ところで、イエスが処刑された場所
には庭園が在り、其処に未だ誰も葬られた事が無い
新しい墓が在った。  42 ユダヤ人の 準備の日で、
その墓が近かったので、其処にイエスを葬った」



福音書ヨハネ20:1〜8参考 「週の最初の日、マリア 
・ マグダレネは朝早く未だ暗い内に墓に来た。すると、
既に墓の入り口から石がどけられていた。  2 それで
走って、シモン ・ ペテロ、及びイエスが 愛情を持っ
ていたもう1 人の弟子の所に行き、こう 言った。
「誰かが主を墓から運び去りまし た。何処に持っ
ていったのか分かりません」 3 ペテロともう1人の
弟子は、墓に向かった。 2人は一緒 に走りだしたが、
もう1 人の弟子の方が速く、先に墓に着いた。  
5 そして前屈みになって覗くと、亜麻 布が置いて
あるのが、見えたが中には入らなかった。 次いで
シモン ・ ペテロが 、来て、墓の中に入っ た。亜麻布
が置いてあるのが見えた。  7 イエスの頭を包んでいた
布は、体に巻かれていた布とは、別の場所に丸めて置
いてあった。  8 その時、墓に先に着いた方の弟子も
中に入り見て信じた。 2人はイエスが必ず 生き返ると
言う聖句を未だ理解していなかっ た」

「聖セイは聖ヒジリを知るというのは、真実だったのだ」
「法隆寺金堂薬師如来像光背銘」では「東宮聖王」
読みはマケノキミヒジリノキミと為ります。
読みは兎も角、漢字では冊封体制の臣下
の一文字の名前が明らかに成ります。

倭 聖が実名で、大君になります。

又問題なのは、聖徳太子が建立し
たと言われる下の太子の、大聖
勝軍寺(大阪府八尾市)です。

上宮家の聖徳太子が、何故
上の太子の大聖勝軍寺では
無いのか?

叡福寺が上の太子(大阪府
南河内郡太子町)なのかです。

下の太子の記念館だった疑惑

平和塔
激闘を繰り広げた太子を守護するか
の様に太子像の前に物部 守屋像が、
祀られています。


そうならば、大(王)の聖に勝った軍

の寺となりスッキリします。

先程の東宮聖王の読み、マケノキミヒジリノキミ詰りは、聖徳太子は敗北したと為り、物部 守屋将軍は、聖徳太子側で、戦死した事に為ります。


当時の世代から、下の太子

倭 舒(舒明天皇)が炙り出されます。

倭 聖大君の失敗 

 倭 舒は、百済救援に漕ぎ着けれ無い不満から 
聖大君の政策を批判。 邇波氏の蔓木領問題を
提起します。 聖大君は、蔓木寺(現橿原市和田
町。1070年 興福寺大和国雑役免坪付帳には、
葛城寺田と 有り田化)を蔓木(葛城)氏に給います。

蔓木邑の刀禰(村長)だった蔓木 小祚の、
蔓木縣の返還要求した人々を中心に怒り
が、頂点に達し 623年戦争が勃発します。 

 623年の内紛は 587年の出来事に創作された

『丁未の変』の原形の内紛。 
実際には癸未の変辛巳だから『癸未の変』
と言うべき (所謂推古天皇31年)です。

 此の改竄で物 多治見(物部 守屋)の息子乎
(雄君)との年齢差が出て、親子関係が疑わ
れる要因に為ります。

 嘘を吐くと嘘の上塗りをせずには、
整合性も 保てません。 

それでもボロは出て来ますから、 
不詳にしなければならない事も出て来ます。