461年 餘 慶(百済 蓋鹵王)の弟、
21歳の餘 昆(昆伎君)が渡来します。 
(今回は百済王の後継者としての渡来では無い)

462年 扶餘王族、倭 興大君
武に姉妹の広を与える。
餘 昆に倭 武を名乗らせる。
餘 紀に倭 継を名乗らせる。

475年 餘 慶(百済 蓋鹵王)が、
高句麗に殺害されます。

478年 倭 興大君を武に譲位して、
大人になり武は、宋に遣使します。

478年に丹波國餘社郡筒川に水江 浦嶼子
という人物云々の話は、倭 興大君の事で
記紀に言う倭彦王でも有ります。

香具山を手に入れた者が大倭の王の
為に、神祇を取り仕切る事が出来ま
したが、餘王族に倭国で、大君の、
地位を与えた事から、浦嶼氏の
浦嶼子の名前を付しています。

大人として、実権を持って高句麗征伐
の野望の実現に腐心し始め、生まれた
明も大君で無く、生まれたら大人
として育てられます。

日本初の総理大臣と謂われる所以です。

482年 浦嶼 草香(尾治 佐迷)は大人邇波 
彌母里(葛城 円大臣)から武大君殺害決定
を受ける。

草香は広(中津媛)を唆し、武大君
殺害させようとして未遂発覚。

戦争と和平。出雲国が大倭王権
の直轄地に。

国郡、縣邑を定め、造長、稲置任命制度。

扶餘 慶(蓋鹵王)の子で、百済王の継承者の隆は
倭国に滞在してましたが、武(昆支)の子、牟大
が、暴虐であったので、百済の国人(大人)は王を
501年に殺害、牟大(東城王)の死を受けて、
帰国首都熊津(忠清南道公州市)で即位します。

武烈天皇紀4年条

百済新撰を引用して、「諱は斯麻王と言う。
これは昆支王の子である。則ち末多王
(東城王)の異母兄である」としながらも、
「今考えるに、島王は蓋鹵王の子である。
末多王は昆支王の子である。

これを異母兄と言うのは
まだ詳しく判らないとしています。


506年 武は、餘 慶(百済蓋鹵王)の仇討ちの
為にも高句麗を撃とうとしますが、邇波 
彌母里大人(葛城 円大臣)の暗殺も行って
おり、加えて出兵強行に出る前に弓矢で
殺害され報復されて仕舞います。 

殺害を受けて倭 興、継は邇波国与謝評隠棲。
興は再び大君に立つ様に期待されますが、
即位要請を興は拒否、継も拒否。

興大人は、拒否する継を、妻の関
(目子媛)を通して興は説得して、
渋々継は大君に即位します。

目子とは、女の子の意味です。
(縄文•アイヌ語)

日本書紀の継体天皇即位前条

武烈天皇の崩御後に皇位継承者がなく、
皇統断絶の危機を迎えた。

そこで大伴 金村らは、丹波国桑田郡
(現京都府亀岡市)にいた倭彦王を擁立
しようとした。

しかし、王としての相応しさを確かめる為に
金村らが武装して迎えに行った処、倭彦王(
古事記では倭彦王の記載は無い)は、これに
恐れをなして逃げ出し、行方知れずになった
と言う。

大伴 金村が言ったと言う言葉は

男大迹王、性慈仁孝順。可承天緒

男大迹王、性慈仁ありて、孝順ふ。
天緒承へつべし。

男大迹王は、慈しみ深く孝行篤い人格である。
皇位を継いで頂こう。

別人です。
詳しくは、ゆくゆく説明します。

その後、代わって越前国にいた男大迹王
(オオドノオオキミ、継体天皇)が即位する事と
なった、としております。

大伴は、大王に伴うと言う意味で、
大王の近衛兵として、働き豪族では無いです。
大伴 金村は隠蔽された倭 興大人です。


倭 武の10歳年下の異母兄弟、餘 紀、
倭 継が大君として、507年に即位しました。

扶餘王族は、百済と契約して居り、
百済の傀儡王は、扶餘王族との契約履行
する為に、百済の大人の支援を受ける為と、
失われた領知の代わりに任那の西半分を
譲る様に働き掛け、興大人は任那4県割譲し
亡くなります。



生まれた時から、大人だった興の息子、
明は、物 尾輿(物部 尾輿)から、任那4県
割譲事件を持ち出されて、大人の地位を
返上せざるを得ず失脚して隠棲します。 

明は、日本初の総理大臣とも呼ばれ、
創作された竹内 宿禰で、老年に敏大君
に退位を迫り嫌がる敏を毒殺し
て、大君になった「用明天皇」の事です。

倭 明大君は崇仏を容認、仏法を重んじ、
実質、王朝において仏教を公認します。

磐余池上陵に葬られ、倭 孝大君(推古天皇元年)
593年河内磯長陵に改葬されたと言いいます。

古墳の墳形は、天皇陵として
は最初の方形墳で、仏教
信奉者を指しています。

実は墳形は信奉の宗教を示して居ります。

前方後円墳(マナの壺)は天神(ヤハ)を
前方後方墳(御神酒瓶)は地神を
円墳は波斯教を、方墳は仏教、
八角墳は道教と言う具合です。
(4世紀後半から確立します)

上下の異形は、夫婦合葬なら
別々の信奉をしていた事に
なります。

(死後別々の墓に改葬される
場合も存在します)

君(妻、后)は、蔓木 垂見の娘、
広子で、子は峻(崇峻天皇)と孝
(茅渟王、推古天皇)に為ります。

大伴氏が絶大な権力を握る事になった
理由として、賄賂も創作されてますが、
絶大な権力を握れたのは、白村江で
大敗北を喫し、多数の有力な大人
(豪族)が亡くなって政権に有力者の
不在が生じたからです。

大伴 安萬呂で、別名を馬来田や吹負、大三輪*
高市麿等の名を持つ人物で、所謂高市皇子#、
稚建大君との厚い信任を得て権力者と成りました。

*発音オームマで、ギリシャ語の意味は、
目、直視、光明、幸福等々の意味合いを
合わせ持ちます。

#藤原 武智麿に殺害された為に、高市皇子
タケチノミコと呼ばれます。