巷では、聖徳太子が存在し無い、存在した

で分裂して居りますので、先に取り上げて

みたいと思います。


Vol.10(5-3)の続編と言う事になります。

今回は粗筋で走ります。


扶餘王族は、扶餘王族の馬飼に国を奪われ

た故地の高句麗を奪還するべく包囲網を、

形成しました。


特に烏桓騎馬民族の王族が国を失って、

共に扶餘再興を行いましたが、安全な

倭国に扶餘王族の本体を置き、烏桓

騎馬民族の直系と契約を結び、扶餘

から一字を与え餘姓を名乗らせ、

土着民に烏桓を、同族と認識させ

扶餘を割譲して大陸に百済を置き、

倭国の大倭豊王権と同年に

百済を建国させました。


Vol.24で書いた通り、対等な関係で始まりまし

たが、何分にも実質的な力が無く大陸出兵して

大敗北を喫した過去が存在して居り、大人達も

大君に厳しい目を向け始め、加羅諸国や百済

に答えれ無い状況に焦りを感じていたの

でしょう。

人の心の善悪二相を表わしたものとされています。

男女で掘られていますが、実際には大国主(大人)

と、大物主(大君)で、政治的な政略結婚の

関係です。


扶餘王族が大人の権威を持ち、

百済王族から、扶餘王族に入婿

にして大君を務めて貰えば

話を進め易くなると考えたのです。


記紀が言う様に、人質を送らせて

従属させていた訳では無いのです。


土着豪族は扶餘王族を好んでいました。

烏桓の百済は小乗仏教徒で、気性が

荒く臣下としては使え無い人々だった

のです。


彼等百済王族は、土着豪族を懐柔する

手段を模索して、東方キリスト教の

波斯教を倭国に、持ち込む事を決め

たのです。

山田大山5号墳 (兵庫県丹波市春日町)


銅鐸、銅矛が破壊されたり、大量

に埋納されたのもこの宗教改革

の為です。

百済王族が大君を務めさせる為に、

態々、大人になり土着豪族から大君

を辞退して逃げ回っていた人物の子

が、百済王族の大君を毒殺して、

大君を始めてから、倭国は百済王族

と扶餘王族の抗争が始まったのです。


日本初の大臣と竹内宿禰(創作人物)

とは、倭 明(用明天皇)の事になります。


百済王族の大君には、扶餘王族から

臣下の大君を奪う正当な理由を得た

のです。


画して上宮家の倭 明(用明天皇)大君系

の系譜は分解された


ですから用明天皇は、殺害した敏達

天皇の父、欽明天皇の子息の位置に

置かれ、用明天皇の子も、欽明天皇

の子とされて仕舞ったのです。


当然、天智天皇系からしたら脇役の

天皇達は、年齢が盛られています。


註 押坂彦人大兄皇子は創作人物です。

創作人物を作り出す為に世代数

を増やして居ります。


用明天皇の行動が、百済王族

にとっては転換点となりました。


聖武天皇が、藤原の傀儡から抜け

出す為に、藤原氏が懐柔に利用

した波斯教から仏教に転向し、

宗教改革を始めたのです。


聖徳太子も仏教の聖人として、

波斯教(景教に変わりつつ在った

が)の十字架(当時はT形)に掛けら

れたイエス•キリストの出生記録

や福音書を参考に創作したのです。


ですから用明天皇の子孫で、倭 聖

大君なる人物の事績を加えた記紀

の他に聖徳太子伝暦が在ります。


イエスが天の王で、地上で王とは

成らなかった事から、聖徳太子も

天皇から外されたのです。


イエス​は​答え​た。「私​の​王国​は​この​世界

​の​もの​で​は​あり​ませ​ん。もし​そう​だっ​た​

なら、私​に​付き従う​者​達は、私​を​ユダヤ​

人​達に​渡さ​ない​よう​に​戦っ​た​でしょ​う。

しかし​実際​は,私​の​王国​は​この​世界​から​

の​もの​で​は​あり​ませ​ん」

ヨハネ18:36


次回は、倭 明 大君の時代から

始めてみたいと思います。