15(2-1)で触れた邪馬台国
の疑惑の続編を扱います。

中国の歴史書の、三国志中の
魏書、第30巻烏丸鮮卑ウガン
センビ東夷伝の倭人条の略称を
魏志倭人伝と言います。

倭人伝には、
政治や社会制度に
就いても触れられてます。

大人・下戸

大人が支配階級、下戸が一般庶民の事。

下戸與大人相逢道路、逡巡入草
傳辭說事 或蹲或跪 兩手據地 
爲之恭敬 對應聲曰噫 比如然諾

下戸が大人と道で会うと、下戸は横の草叢
クサムラに入って道を空ける。

言葉をかけるには、下戸は地面に跪ヒザマヅき、
両手を地につけて大人を敬わなければならない。

税金の徴収にも言及

收租賦 有邸閣 國國有市 交
易有無 使大倭監之

租賦を収めて邸閣があり、
国には市があり、双方の有無とする
物を交易し、大倭にこれを監督している。

三国志での使用例から、邸閣は軍団の糧食
保管基地を意味すると考えられ、軍事
従事者達への、食糧提供程度の機能で
あったと思われます。

保管基地を意味すると考えられ、軍事に
従事者達への食糧提供程度の機能で
あったと思われます。
 
ですが中央集権に反対して居た、小国の
連合体の邪馬台国や大漢国で、施行され
ていたとは、到底考えられません。

初代の天皇と目される崇神天皇、
詰り、倭 旨が大君だった時代に
戸口を調査して初めて課役を課した。
この偉業をもって御肇国天皇ハツクニシラス
スメラノミコトと称えられたと記紀では、
記しています。

ここに天の下平ぎ、人民富み栄え
き。ここに初めて男の弓端の調
ユハズノミツギ女の手末の調タナスエノミツギ
を貢タテマツら令シむ。

こうして国の中に平和が甦り、
人民は富み栄えた。

ここで初めて、男には弓矢で捕った
鳥獣の類を税として、女には手先で
作った織物の類を税として、それぞれ
徴収することを定めた。

内容は、346年から始まった大倭豊王権
成立した時代以降の内容だと言う事です。

そもそも記紀の内容からも、
邪馬台国が端ハナから 存在し無い
ものとして扱われたと言う事実
を真剣に考えるべきです。

唐の先進的な技術や政治制度や文化、
仏典等の収集が目的とされましたが。

留学生が、唐朝から受けた留学手当は
全て書物に費やし、帰国していったと
言う話が残されている理由は何でしょうか。



考え得る結論は、日本を中国より古い
国に仕立て上げる為に、留学生名目
で送り込み、写本して記録を保存
する術を身に着ける話しで、凡ゆる
日本に関する文献の写本作業中に改竄
を働いて、日本のイメージを操作する
事が目的で、使命だったと思われます。