巫覡でも有る土着の豪族、意富比垝
=大彦(王日子)命に招聘された扶餘
王族は、用意された遠洋航海船で、
初の仕事を行います。

猿投神社の古地図

生津の上方に廻間と書かれた所が、扶餘王族の上陸した場所です。生津に至る半島は未だ出来て居りません。

345年9月 扶餘 依羅の子、
倭 得玉は、東海三神山の地に
上陸を果たし、騎馬隊を陸揚げし
整列させます。

志津山(四極山)


四極シハツ山 (所在未詳。始発の意味)
四道将軍(後世の創作で当初は二道将軍。
東西)の、出発地で旧東山道の北方に、
位置する志津(鎮)山で、大垣(集合地)です。

5世紀の倭の五王の一人である武が出した上表文
には、東西南北ではなく、東西を平定したと言
った内容が記され、東西を基軸とした国家統治
が、進んだ事を理解出来ます。

四極山打越見者笠縫之嶋榜隠棚無小船

四極山を越えて見ると、笠縫の島の
あたりを漕いで隠れてゆく棚無し小舟よ。

当時の上陸地


ユーラシア大陸から別れて来た日本
は、沿岸部が随分内陸に入ってました。
土地は肥沃で、水や沢地が多く、現在
と比較して、土地が少ない状態です。

邪馬台国の弥奴(三野)国の酋長が恭順し、
従軍します。

東山道を、先導したのは邇波国(丹波旧名)王の
邇波 彦(大彦命•丹波道主命•彦坐王)、王の
津守 吾田(陸耳 三笠)、扶餘王族 倭 得玉と
足下の騎馬隊の、邪馬台ヤムトェ国征伐軍。

東海道を通り大漢、扶桑国(徐福子孫)に
扶餘王族渡来と邪馬台国討伐を告知する
使者として、邇波 多加利(武渟川別命)
を派遣します。

道教の聖地を巡礼する東山道を
茅渟海*方面から侵入した征伐軍

*現在の大阪湾(大阪府南部)の沿岸の古称。

徐福は秦の始皇帝を騙し、日本に渡来した
に稲や秦の遠洋公開船の技術、養蚕技術
、葦から鉄を採る方法等を持ち込みました。

邪馬台国を建国した弥生人達も同族であり、
邪馬台国から、旧東山道を経由して、
船を使い文身(古墳時代の火高見)国を中継
して、船で君子国(大漢国)へ向かいます。

口伝を共有し、共に道教を信奉して、
東海三神山の地の三神山に登仙しました。
神仙思想の地の瀛洲山(石巻山)には、
薬草が沢山自生してました。

麓には、夏王朝開祖の禹王の誕生地と
同じ地名の嵩山に蛇穴が在ります。

方丈山(本宮山)の麓には、牛の滝が在り
往古の神事に、殺牛殺神という生贄行事
があります。  (続編は別の機会で)

邪馬台国は、10月10日未明
に夜襲を受け、滅亡しました。

相手を威嚇する役目で、
鏃に鳴鏑ナリカブラを用います。
耳成山以南は、集落が全滅です。

邪馬台国平定して、扶養王族の王子は、
邪馬台国の三種の神器の水晶を捕獲し、
得玉と邇波 彦から名付けられます。

三宝は鈴、硯(酒船遺跡•亀•小判型)、水晶玉

浦嶼子は、支配者を志し、三宝中ニつを揃え
都に向かいます。水晶玉を持って居る龍宮の
竜王は娘乙媛を遣わし、龍宮に呼び水晶玉を
与え、留まる様に娘を妻として与えます。

三年立ち志を思い起こして、妻に打ち明け
地上に、生まれた息子と水晶玉共々逃がし
て貰いますが、浦嶼子が逃げた事を聞いた
竜王は、大蛇になり追うが逃して仕舞ます。

浦嶼子は、息子を世継ぎにして海も制覇し、
統治すると言う邪馬台国の伝承を香具山
の管理者は継承します。

邪馬台国の最後の王、阿米 茁子は
捕縛され、銅鐸の神(蚩尤)に祈り
ますが、彼等の厳しい法律により
処刑されます。

富雄丸山古墳は、阿米 茁子
の墓の可能性大

2m37cmの蛇行剣、鼉龍ダリュウ文盾形

銅鏡が、発見されています。
年代測定で1世紀の誤差は範囲内だと
思っています。


知られざる古代史に光をあてる

(資料編 2)を参照して下さい。

10/22 邪馬台国残党征伐軍出発。

346年
4/4 邇波 彦が帰化する扶餘王族の
船団を御春山から発見。

4/28 征伐軍が旧邪馬台国の大倭国帰還、
残党平定、恭順者措置を王邇波 彦に報告。
大倭豊王権成立します。

邪馬台国の王茁子の子、謄は恭順して、
豊国を建国し自治権を与えられます。

豊国の日田に住んだ人々が生産した土器が、
全国で消費される事になって行きます。

那珂八幡古墳 

最近紙面を賑わせた古墳です。 

邪馬台国の王、大倭王権に服属した
阿米氏の嫡流の墓で、邪馬台国滅亡の
際に西国落ちした際に、持参した土器等
を副葬した九州最古の古墳に成ります。