御春ミハル(尾治•尾張)氏の本拠地として、

知られる地域で起きた事



景行天皇から、休む間もなく東国の

平定を命じられた日本武尊は、東へ

向かう前に敵に欺されて草むらの中

で四方から火を点けられ、咄嗟の

機転で倭姫命から授かった天叢雲剣

で草をなぎ払い、火打ち石で逆に敵

に向かって火を放ち炎は向きを変え、

勢いよく敵に、向かって燃え広がり、

無事窮地を脱する事ができた。


古事記の話の元の舞台が、名古屋市

天白区に存在しました。 

逆見の海と呼ばれた場所です。


古事記では、倭建命となっていますが、

倭 建天皇表記も見られますから、日本武尊

で統一した表記にします。


命と尊にはどの様な意味があるのかも、

ゆくゆくはお伝えします。


焼津地名の由来の出来事は、逆見の海の焼山


倭 讃(景行天皇)大君は、称号の通り

(陰を行く)波瀾に満ちた一生でした。


朝鮮半島で、傀儡して居た同盟国の

王達は、国内の実力者から同意を得

に難い状況に有り、倭国が臣下にし

なければ為らない局面に達し出兵します。


倭 讃大君は、大陸に出兵させます。 

祖父の扶餘 依羅(金 首露・倭 旨)には、

扶餘王族の悲願が有り、それは高句麗国

を自らに取り戻す事でした。


倭 旨大君(扶餘 依羅)の、長男金 道(居登王、

加羅国)の兄弟には、毗可(大加耶君 阿修妻) 

次男金伐休(新盧国)、三男金末休(子の奈勿が、

新盧国名変更新羅)が、五男は、扶餘 玄(五瀬)で、

大陸で、奪還を目指します。


大国の高句麗は、同盟国の任那、加羅、

新羅、百済を配下に治める為に、

倭国軍を撃ち破ります。 


扶餘も410年に滅亡します。

 讃大君は、宋に朝貢し中国

の力を借りる事にして行くのですが。


倭 讃大君


一方、中央集権に反対する徐福後裔の

大漢国(後世 穗国)の東征を行なう事

を決めます。


建稲種命とは誰


倭 讃大君は、副将軍に津守 吾田の子、

乎己志を選び、乎己志の姉妹、志保(宮簀媛

)を娶り姻戚関係を結ぶと約束しました。


松炬島(笠寺台地)を出発の際に、

乎己志(建稲種)は妹に会い、従軍

した恩賞として、妹の志保を妻に

貰うと言ったと、伝えてます。


妹の志保に見送られ、対岸の常世島の、

火高見国の本拠地に向かい、そこから

水軍で、鎧を着用して、入江の内陸部の

島田を視察しながら北上しますが、

賊に弓矢で攻撃され船から落ち水死します。 

(逆見の海)


記紀の相武国の焼津事件の元


直ちに船を岸に着けて、部下は、

島田上下2郡の賊を包囲して焼き討ち

し、手柄として島田臣を戴く事になります。


内陸の海を突き当たる四軒家(守山区)で

舵を西に切り、曽根湾(東区大曽根)を抜け

守山の鳥羽見を回ります。


水軍は、三野後国の内津湊に着くと、早馬で、

戦勝祈願の、香具山祭事を行う準備をしていた

倭 讃大君の元に、使者を遣わします。


西尾サイオ地名由来


使者が早馬を西に尾を向けますと、

東に海アマノ香具山が存在しました。



讃大君は嘆きますが、大将の邇波 彦佐須伎

(彦狭島)大人は副将軍を決める様に促し、

倭 旨大君の孫で、 倭 豊日の子、大伴 乎多氐

(武持)を指名しました。


記紀の物語


日本武尊は早馬で駆けてきた

従者の久米八腹から,東海道を

通っていた筈の建稲種命

が駿河の海で水死したことを聞いた。


日本武尊は「ああ現哉々々」

(ウツツガナ)と嘆き悲しんだ。


出征した兄の無事を祈願して待ち、

悲嘆に暮れた志保の話しから、後に

松姤社(待つ娘)が建立されました。


一方の、火高見国の本拠地跡には、

倭 武の遺児で、この地に隠棲した

幼武を養育した武の妻、広の妹関

に関連して、氷上姉子神社が建立されてます。



相武(相模)国は、当時自治区の遠淡海国でした。

倭 建(天武)天皇の時代の日本が中国の属国化

した後に、行われた壬申革命戦の勝利に合わせ

大倭王権に新規加入してます。


*近淡海国(淡海)は近江です。


大伴氏略系譜

倭 旨―豊日―大伴 乎多弖 (乎多氐・武持)―
佐田比古―无利弖(室屋)―乎物(談)―佐弖比古
 (狭手彦)―阿被比古ー奈羅古(三輪 文屋)―
安萬呂(*馬来田•吹負•大三輪 高市麿)

*吹負は不敬、馬来田は負けたの意味です。
前者は大友皇子に対して、後者は藤原
文忠(不比等)との政権争いに於いてです。


津守 乎己志が葬られた陵墓は

弥生時代の文身国は、邪馬台国から、
東巽【東船(東山)】道を陸路から海路へ、
切り替えられ大漢国へ渡る中継地でした。

扶餘王族が伊勢海の北上するのを見、
狼煙を上げた事から、常世島の火高見
(日高見)国となります。

火多加知(地)とも書かれ、火高地でも
ありましたが、1382年(永徳2年)の
火災から、大高に改変したと
伝えられてます。

氷上邑は、火高の里と呼ばれます。 
津守 乎己志は、現在の東海市名和町に
葬られ、円墳で、現存して無い
兜山古墳に葬られました。

直径は南北約43m、東西約49m、
高さ約4.5mでした。

墳頂付近に粘土に覆われた棺室が在り、
内側には朱が塗られ、床には小石が敷き
詰められ、捩文鏡、内行花文鏡、滑石製合子、
碧玉製石釧(腕輪)、碧玉製小型壷、勾玉・管玉、
刀片や土器類が出土しました。

津守氏系譜(東夷、夷)  訂正済み

津守 吾田(陸耳御笠)ー乎己志(建稲種)ー
桙萬侶ー薮萬侶ー酒萬侶ー豊継ー道雄ー
嶋雄ー光定ー経定ー景邦ー笠島 邦久

大人として扶餘王族の支持して、邪馬台国
の討伐に参加した日本の最先住民族です。

容貌は、大きな耳と鷲鼻が
特徴で、後代に土蜘蛛と蔑称されます。