実際の高天原の存在する常世の地


天香具山編

外国人が来て、失望する有名な場所です。
(この記事は英語版も準備する積りで居ります)

疑惑噴出!霞逮タナビく」•「 鴎が飛ぶ 」?

海抜が低く小高い丘程度の、奈良県の
天香具山では、有り得無い話です。

「神風 カムカゼ の伊勢の海の大石にや這ひもとへる 細螺 シタダミの 細螺の吾子 アゴ よ吾子よ細螺の這ひもとへり うちてしやまむ」  日本書紀 神武条 久米歌

神風とは、登場人物達が、遭遇した暴風雨に為りますが、神に導かれ(暴風雨)伊勢に到着したと言って居り、他ならぬ伊勢海での出来事です。

大石とは、日本書紀で、此の歌の説明として「大石を国見丘に喩えたのである」とされて居りますから国見山が、現在の岐阜県と愛知県に跨って居ると理解出来ます。

更に内津の内々神社の奥には、巌屋神社が有ります。内々神社裏の庭園奥には、三大巨石が(中央の天狗岩、古事記岩、景向岩)存在し、記紀の天岩戸だと判ります。


現在では樹木に隠れて仕舞っている天狗岩です。


『尾張名所図会』内々神社の条。
「大石を穿ちて壇とし甚だ険しくして登る事容易からず」
※大きいので只、一つの山と見られる。(奇怪な巌)
「這い登る蔦も悩むや天狗岩」
と詠んで72歳の横井也有 ヤユウ 時般 トキツラ 翁は進んだ
(内津草1773年)

※日本書紀の歌と同じ感想で、海だった時分は、細螺。内陸時代には、朝顔。と言う訳です。巌屋神社は、天岩屋戸に対応する場所です。

本殿背後に庭園、池の東西に出島が、在り中央に中島【蓬莱、亀島。三石…磐座(奥津、中津、辺津)と三大巨石】が、造られ滝の位置は天香具山付近を差して居ります。当時の此の場所迄、伊勢海が入って居たと無言の証をしてます。


海が、当時存在して、海香具山の麓迄、内津の入江が

入って居た伊勢の海の袂の大石、天香具山だけです。

麓では、大理石も発見され海だった証拠も出ています。

更に詳しくは、黄金伝説で取り扱います。

*鴎(味蜂)の飛来地の味蜂間も近いです。

扶餘王族の上陸地として、安八麿アワチマと

8世紀に漢字を当て嵌めます。方県(縣)郡

とは扶餘王族の「方々」の意味でした。

方縣津神社の祀神は扶餘王族です。

本巣は、本簀モトスで扶餘王族の大君の

継承者の産土の地でも有りました。

「久方の 天の香具山 このゆふべ 霞たなびく 
春立つらしも」神威 人麻呂(柿本人麿)


尾張国で倭建命、日本武尊が読んだ天香具山歌です。

大和は 国のまほろば たたなづく青垣 

山隠ヤマゴモれる 大和うるはし 

訳出

大和は、日本の中で最も素晴らしい所だ。

長く続く垣根の様な青い山々に囲まれた

大和は、本当に美しい。



大和も当時尾治も三文字ですから、

入れ替えても違和感無く読めます。

次の歌は有名な歌ですが、尾治に入れ替えます。


「尾治には 群山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 國見をすれば 國原は 煙り立ち立つ 海原は かまめ立ち立つ うまし国ぞ あきづ島 尾治の國は」


「 國原は 煙り立ち立つ 」

実際には、集落だけで無く窯業や

製鉄等の産業も関係して居ります。

眼下には、蔓木邑 (後世に記紀の記述は、大和國葛城郡にする )が在り、御春山(尾治、尾張山。別名蔓木山、葛城山)も見えました。 現在の春日井市の外之原に鎮座する白山神社は、元々を訓原クニハラ神社と言い延喜式神名帳に、春日部郡訓原神社と記されている神社です。

三野後国の香具山から、隣国の尾治国を観て読んだ歌でした。当時の国境を外之原と呼び、国原を歌ったのです。

北名古屋市の訓原神社は、古く栗原天神と
呼ばれ矢張り、国境線となる部分でした。