猿投神社の古地図説明 ③


春日井は春日部の井戸が由来

志段味や守山が見えますが、
尾張地名の発祥地、江戸時代
から呼ばれた東谷山の前身の
山名が見えません。

何故でしょうか?

高倉山は見えます。

東谷山の中腹の井戸は、
伊勢湾の潮の満ち引きに
合わせて、井戸の水位が上下
したと伝えられて居りますがこの、
古地図を見れば合点が行きます。

東谷山の南西の濃尾平野に、
春日や葛木、大治が在り、
東谷山の南には尾張旭が
存在して居り興味深い点です。

陸上化した後に地名が移動して
いるのです。

重ねて考えて行けば、尾張氏の発祥地
とされるのは高尾張で、現在の奈良県
西部である葛城市の高台(葛城山の麓)
だとされています。

分散している地名を収斂して行けば
尾張の葛城邑(村)は、尾張山の別名、
葛城山の麓に存在していた邑だと判ります。

山名の変遷

津守山(守山)→御春ミハル山→尾治山→
尾張山(高尾張、蔓木山)→当国(當国)山→東谷山

高尾張の葛城山の表記も(記紀)


入鹿屯倉

蔓木 垂見(一言主神、蘇我 稲目)の大人
(実質王)で、尾治国造。 

倭 幼武大君(欽明天皇)が、政権を補佐
して居た際に入鹿屯倉を設置しました。

入鹿とは、怒る(イルシカ)の意味が在ります。

父王を暗殺した倭 継大君(継体天皇)を
太子共に殺害させ断絶させた後に、
武大君の子を、傀儡王(大君)に
擁立する立場に在った蔓木 垂見
は、尾治(蔓木、葛城)山で、鹿狩り
をして、幼武の素質を見極めます。

今で言うビジネスでゴルフをして、相手を
見極めるのに似ていますね。

従って鹿(狩り)に拠って、
(君として政権に)入ったの省略形です。

猿投山は鉄鐸、蛹サナギの形から

祭祀に用いられたり、誓約の鈴

として、土地境界や戦争の和睦
などの際に使用しました。

瀬戸市方面から海の上森カイショノモリ
に海が入り、豊かな木々が
在ったと伺い知れます。

製鉄は風や木々が沢山必要です。
伊吹山からの風が強いこの地域
で製鉄を生業にしたのでしょう。

景行天皇の飼っていた猿の話が
出て来る猿投山です。

猿投山の麓に幼少期に住んでいた知人
の話では、アンモナイトの化石が在り
採取したと話して暮れました。

日本武尊の双子の兄弟、大碓命が乗って
きた船が石になったと言う御船石も存在
してます。

伝承の由来も、後々説明します。