最近、長年地域の知の拠点の役割を果たしてきた書店が、経営難を理由に相次いで閉店してると言う。書籍を買い求める為、わざわざ飛行機や新幹線に乗らないと、そう言った類の書籍を変えない地域が急増していると言う。

 

私の周辺でも、かつては書店が5軒ほどあったが、この10年で一気に全て閉店。ネット販売でも手に入らない筑紫哲也氏の評論集の書籍を求めに、つい先日東京・神保町の書店へ行かざるをえない羽目になった。

 

また、大手・地方紙を問わず夕刊の廃刊・又は新聞発行自体の廃止・会社解散となった新聞社の話題が相次いでいる。昨年、北海道新聞社・静岡新聞社が相次いで夕刊発行を全域で廃刊。静岡新聞社の夕刊発刊数は53万部・北海道新聞の夕刊発刊数は25万部であったことから業界に衝撃が走った。さらに今年に入り、業界最王手の朝日新聞社が、北海道地区での夕刊発刊を取り止めた。

 

思えば、イギリスでは、留学中大変お世話になった「インディペンデント」紙が2016(平成28)年3月末でネット発行のみに切り替わるなど、世界的にも活字文化の退潮は著しい。

 

実は最近、私は気になる事がある。ブログを書きつつ、書面に記述する機会もあるが、その時漢字や言葉が思いつかない事がしばしば。加齢による痴呆進行かと気にはしていなかったが、最近活字メディアに触れない若者の、書面等への加筆の際に誤字脱字が非常に多いと問題視する識者が増えている。

 

ある言語学者は、

 

~別に今のITメディアを否定するワケではないが、若者の読書や記述の機会が急減すると共に、記述を要する書面等で、若者の奇々怪々な記述が急増していると言う。またキレる若者の急増も以前から問題となっているが、これも読書時間の急減に、キレる若者絡みの犯罪数の増加と比例する。新聞や著書を読むという事は、活字に触れる機会を提供するだけでなく、我慢強さを作るベースともなっている。そうした事が見直され、海外では、自治体を中心に書店や地方紙への経営補助を行う動きが、顕著だそうだ~

 

と語ってくれた。

 

日本では、この「失われた30年」の間に、書店や地方紙の急減に比例するかの如く、キレる若者・利己主義者の数が急増しているという研究結果も、大手シンクタンクなどの研究発表で明らかになっている。正に、前出の言語学者の指摘の通りだ。

 

言葉に直接触れる機会を提供するのは、ブログも同じである。しかし、私の評論は残念ながらPCの画面を飛び出し、筑紫哲也氏の様に書籍になって、親しく人々の芽には触れていない。非常に残念である。以前と比べ、個人が自身の考えなどを書籍として発表するには、極めて高いハードルがあった。しかし、自費出版など機会も増え「書籍版ブログ」等という新しいメディアも出て来てるそうだ。私の様なブログも、その内「旧態依然化」するのか。

 

話は反れたが、活字文化・メディアを守ろうとする公的私的な運動を起こさねば、後10年も絶たない内に、日本はかつて太平洋戦争へ突入した時の様な、利己主義と変更主義に満ちた人間の集団と化す国家となるだろう。

 

事は急を要する。例えば、公設図書館のスペースに、経営難な地域の書店が共同で出店出来るスペースの提供や、書店経営維持のため、経営監視などの仕組みを構築した上で、公的資金による経営下支え等、地域の活字文化を支える仕組み作りが必要なのではないか。

 

また、大学・高校入試の出題に際して、大手紙引用ばかりでなく、地方紙の良質な評論を出題させる機会が生まれるよう、大学入試センターや各大学・地域の教育委員会が道筋を作るべきだ。

 

活字文化が廃れば、かつてナチスが跋扈したドイツの様な世界が広がる。人々は、ありもしえないプロパガンダに酔わされ、その片棒持ちを活字メディアが加担する。

 

気が付けば、人々は全てを失う事になると言う訳だ。