かのフランス女性猟奇殺人事件犯との獄中書簡が題材となり、後に「佐川君との手紙」として芥川賞を受賞した作家とも知られ、アングラ演劇集団「唐組」を率い、戦後日本の演劇界の中心的人物と呼ばれた唐十郎(本名:大鶴義英/おおつるよしひで)氏が亡くなった。現在、俳優・映画監督として活躍する「大鶴義丹/おおつるぎたん」氏は、唐氏の長男である。

 

私達が学生の頃「唐十郎」「寺山修司」を語る事は、演劇や芸術学を志す学生にとっては、避けて通れない議論の対象だった。私の学生時代の専攻は、縁も所縁もない労働問題だったが、不思議と同志社学生の「乱学の癖」というのが疼き、京大や立命館の学生の友人らと共に「状況劇場」や寺山氏が率いた「天井桟敷」の芝居を見ては、河原町の場末のバーで「あーでもない・こうーでもない」と議論を繰り返していた。

 

唐十郎氏は、東京都台東区生まれ。実父・大鶴日出栄(おおつるひでお)は映画監督・プロディーサーとして戦前から活躍した。名門芸術一家に育つ。

幼い頃から秀才と知られていた唐十郎氏は、私立駒込中⇒東邦大付属高⇒明治大文学部と進み1958(昭和33)年に明大卒業。卒業後、同氏ら3人と共に自立学校の設立に参加。

 

そんな「彼」が、初めて「唐十郎」というペンネームを使ったのは1964(昭和39)年、24歳の時の処女戯曲「24時53分「塔の下」いきは竹早町の駄菓子屋の前でまっている」で。「唐(中国)天竺に十人のつわものありき」という漢詩に心を打たれた「彼」は迷うことなく「唐十郎」ろいうペンネームを選んで、処女作を発表した。

 

「唐十郎」氏を語る上で、避けて通れない場所がある。世界最大の歓楽街である新宿・歌舞伎町に隣接する「新宿花園神社」。「唐十郎」氏が「状況劇場」の初公演の場として選んだのが「芸能の神」が鎮座する「新宿花園神社」。「唐十郎」氏率いる「状況劇場」がこの地で公演を始めたのが1967(昭和42)年。奇しくも、私が生まれた年だ。真っ赤なテントの下で繰り広げられる、人間の想像を超越した数々の演劇は、今やテレビ界の「知の巨人」と呼ばれるタモリ氏や「ヨイトマケの歌」で知られる美輪明宏氏も観覧し、後に強い影響を受けたとされる。この5月、久々に「新宿花園神社」で行われた「状況劇場」の後継劇団「劇団唐組」の公演には、「唐十郎」氏の訃報を聞いて、当日券を求める長い行列が出来たという。

 

生前、直接「唐十郎」氏に薫陶を受ける機会はなかったが、京大の西部講堂で行われた寺山修司の「天井桟敷」公演に「唐十郎」氏がゲストで呼ばれ、観覧していた学生や若者に話しかけた内容を今も思い出す。

 

~若い人達は一杯迷って、一杯失敗すればいいんです。迷わず失敗もしなかった人が、社会のトップになって何が出来るんですか?。メチャクチャ失敗して、大いに悩めばいいんですよ。何をを恥ずかしいって、躊躇うんでしょうかね?。僕なんか未だに失敗して、大恥かいてますよ。

 

何か世の中「いい子ちゃん」でないと相手にされないって風潮が広がって、僕はコワい世の中になったなぁ~って思うんです。もっと恥をかきなさい。でなきゃ、世の中なんて動かせられませんから~

 

合掌