今日2月19日は「プロレスの日」と言われている。

 

今から70年前の1954(昭和29)年の今日、当時の蔵前国技館で、力道山と柔道からプロレス界に転身した木村正彦がタッグを組み、シャープ兄弟とNWA世界タッグ戦で戦ったことに由来する。日本テレビとℕHKが生中継。当時の新橋駅西口に設置された街頭テレビの前には、2万人の観衆が押しかけたそうだ。

 

そんな今日、力道山・アントニオ猪木と並んで「日本プロレスの父」と評され、25年前の1999(平成11年)に61歳でこの世を去ったジャイアント馬場(本名・馬場正平)氏の伝記絵本が発売された。タイトルは「うえをむいてあるこう ジャイアント馬場、世界をわかせた最初のショーヘイ」である。

 

児童文学作者・くすのきしげのり氏がストーリーを執筆。若手実力漫画家の坂上暁仁氏が若き日の馬場さんの雄姿を描いた。ジャイアント馬場こと馬場正平氏は1938(昭和13)年新潟生まれ。大型若手有望株として読売巨人軍に入団するも、脳腫瘍に襲われ視力が低下。プロ野球選手継続3年で断念して、1960(昭和35)年、かねてより親交のあった力道山を訪ね、プロアスリートとして道を繋ぎたいと入門を直訴。認められ、後に袂を分かつアントニオ猪木・大木金太郎と共に研鑽を積んだ。

 

後に数々の世界タイトルを奪取し、力道山亡き後の全日本プロレスの社長として、日本のマット界を牽引して来た事は、語るまでもない事実である。

 

今では信じられない話だが、金曜の夜8時や土曜の午後7時には、プロレスの生中継があった。テレビのプロレス中継を見ながらメシを食い「イノキ・ボンバイエ」を叫んでいたのを思い出す。

 

とにかく、そのころの日本マット界は「スーパースター」揃い踏みだった。アントニオ猪木・ジャイアント馬場・ジャンボ鶴田・ドラゴン藤波、いまではヨギボーのCMでおとなしいおじさんを演じる長州力だって、鬼の形相でリング上で戦っていた。彼らの猛者を後ろに回して戦う姿に、私の親世代は戦争に負けた悔しさを重ね合わせたと言う。「俺達だって、やれば出来る」日本経済が高度成長すると共に、日本マット界も盛り上がって行った。

 

残念であるが、今の日本マット界に往年の熱い姿はもうない。主導権争いの抗争に明け暮れ疲弊し、女子マット界に至っては一時団体が完全消滅する事態にまで陥った。馬場さんが亡くなって四半世紀・・・あの世のリングの上から、力道山・猪木と共に、馬場さんは日本のマット界&社会全体の衰退を、どのような思いで眺めているのだろうか。