さてさて………………
足利尊氏の墓がある【等持院】を後にし、ココロは次の目的地に到着した……………………
到着したのは……………………
【蓮華寺】
京都府京都市右京区御室大内20
ここに辿り着くまで、少し迷子になりましたが
【蓮華寺】は、真言宗御室派の別格本山。
阿弥陀如来などの五体の石像(五智如来石像)が【本堂】の前に安置されている
平安時代後期の天喜5年(1057年)、後冷泉天皇の勅願によって広沢の池のほとりで創建されたと伝えられる。
『応仁の乱』の兵火にあい、鳴滝・音戸山の山上に移転。
その後、長く荒廃していたが、江戸時代前期の寛永18年(1641年)、豪商だった常信が再興した。
五智如来石像はこの際、常信が木食僧坦称に彫刻させたものだという。
昭和3年(1928年)、御室【仁和寺】の東隣の現在地に移った。
そして、ココロがここ【蓮華寺】に来た目的である墓地は【本堂】の隣にあった。
戦前・戦後期にわたって活躍した時代劇スターで、同時代の阪東妻三郎、大河内傳次郎、嵐寛寿郎、市川右太衛門、長谷川一夫とともに『時代劇六大スタア』と呼ばれた。
出演作品は300本を超えるという
戦前は片岡千恵蔵プロダクションを設立し、稲垣浩、伊丹万作の両監督とコンビを組んで傑作時代劇を多く生み出した。
戦後は東映の重役スターとなり、亡くなるまで打一線のスターで在り続けた。
終戦直後のGHQの占領時代には、金田一耕助や多羅尾伴内などを演じ現代劇でも人気を得て、両シリーズはその後も長く続いた。
1927年に「奴」を踊った際に、癇癪持ちの片岡仁左衛門から罵られ、真剣の峰で顔を殴られたことがあった。これを見た嵐寛寿郎は「心が寒くなった」といい、歌舞伎の世界に見切りをつけたと語っている。
自宅は京都にあったが、晩年は東映役員を兼任しながら名古屋市中区錦三丁目に三階建てのレストランビル「千恵蔵ビル」を建て、次男の孝臣に経営を任せ、二階に趣味と実益を兼ねた麻雀屋を開業し、月の半分程はここで麻雀三昧の日々を送っていたという
京都の本宅に住む妻とは20年別居し、晩年の20年は名古屋に住み、身の回りの世話は料亭の元は女将がしていた。
千恵蔵が亡くなったのは東京の病院であったが、枕頭にいたのもその女性だった。
千恵蔵の遺体は寝台車で運ばれ京都に向かったが、千恵蔵を許さない妻が京都の自宅での葬儀を拒否した
「それでは世間体が悪いから」と当時の東映社長岡田茂が妻を必死に説得し、密葬を京都の自宅で、葬儀・告別式を東映京都撮影所葬として行われたという
千恵蔵は若い頃から指南役の五島慶太に勧められ、名古屋・伊豆・信州に土地を買い、他にマンション経営や、ガソリンスタンド、そば屋などを所有し、資産額は数十億とも数百億ともいわれ、日本映画界きっての資産家として知られた。
その片岡千恵蔵の墓があるのは、【仁和寺】の駐車場すぐ近く
リアルタイムで片岡千恵蔵を見ていた理由ではないけど、またひとつ京都の歴史を学びました
【史跡仁和寺御所跡】
『御室桜』も咲き始めていたようだが、今回の目的は違うところにある
【仁和寺】は、また改めて参拝を計画しよう
ココロは【仁和寺】の門前を通過し、次の目的地へと向かった…………………