さてさて………………


【龍安寺(りょうあんじ)】
京都府京都市右京区龍安寺御陵下町13



【庫裡】
禅宗寺院の簡素にして重厚、特に木組と白壁の調和がまた静寂の内に構成美を醸し出している。

そして、いよいよ………………ランニングアセアセダッシュ


見えてきたのは…………………目


【方丈庭園】国の史跡・特別名勝
いわゆる「龍安寺の石庭」である上差し

白砂の砂紋で波の重なりを表す枯山水庭園の特徴を有する。

幅25m、奥行10mほどの空間に白砂を敷き詰め、東から5個、2個、3個、2個、3個の合わせて15の大小の石を配置する。


これらの石は3種類に大別できる。

各所にある比較的大きな4石はチャートと呼ばれる【龍安寺】裏山から西山一帯に多い山石の地石。
塀ぎわの細長い石他に2石は、京都府丹波あたりの山石。
その他の9石は、三波川変成帯で見られる緑色片岩である。


寺伝では、室町時代末期(1500年頃)特芳禅傑らの優れた禅僧によって作庭されたと伝えられるが、作庭者、作庭時期、意図とも諸説あって定かではないえーんアセアセ

塀ぎわの細長い石には「小太郎・□二郎」と刻まれており、作庭に関わった人物と推測されるが、詳細は不明であるえーんアセアセ


この庭は石の配置から『虎の子渡しの庭』や『七五三の庭』の別称がある。

虎の子渡し』とは、虎トラは3匹の子供がいると、そのうち1匹は必ずどう猛で、子虎だけで放っておくと、そのどう猛な子虎が他の子虎を食ってしまうという。

そこで、母虎トラが3匹の虎を連れて大河を渡る時は次のようにするという。

母虎トラはまず、どう猛な子虎を先に向こう岸に渡してから、いったん引き返す。次に、残った2匹のうち1匹を連れて、再び元の岸に戻る。その次に、3匹目の小虎を連れて向こう岸へ渡る。

この時点で、元の岸にはどう猛な子虎1匹だけが残っているので、母虎トラは最後にこれを連れて向こう岸へ渡る…………という中国の説話(虎、彪を引いて水を渡る)に基づくものである。


この【石庭】は、どの位置から眺めて目も、必ずひとつの石が見えないように配置されているびっくりアセアセ

どこから鑑賞目しても庭石が1個までしか見えないようになっているのは、ある石に別の石が重なるよう設計されているためで、日本庭園における「重なり志向」を表したものといわれている上差し


【知足の蹲踞(つくばい)】

蹲踞(つくばい)は、茶室お茶に入る前に手パーや口を清めるための手水舎のこと。



茶室「蔵六庵」お茶の露地にあり、水戸藩主徳川光圀の寄進によるものと伝えられている。

方丈北側にある蹲踞上差しカメラは、精密な複製であるというびっくりアセアセ

本物はどこに!?!?!?チューアセアセ


蹲踞の上部にある文字は一見「五・隹・疋(但し、上の横棒がない)・矢」と読めるが、水溜めに穿った中心の正方形を漢字部首の「口」と見ると、『吾れ唯だ足るを知る』となる上差しびっくりアセアセ



知足のものは貧しといえども富あり、不知足のものは富めりといえども貧し』という禅の格言を謎解き風に図案化したものであるというびっくりアセアセ

こういうの日本らしくて好きだなあおねがい



京都検定鉛筆にもよく出題される『虎の子渡し』と呼ばれる【石庭】についに立つココロ口笛


ここ【庫裡】にて、御朱印を頂きました上差しカメラ
もちろん初となるお祝い

石庭」の文字鉛筆がダイレクトでシブいおねがい


【庫裡】から出てきて、外側から…………上差しカメラ目

この石段上差しカメラの上にあるのが、【勅使門】だ。


【勅使門】
重要文化財。
寛政9年(1797年)に火災炎で焼失したえーんアセアセ後、【西源院唐門】を移築したモノだという。


この奥(中)に、【石庭】があるわけだ上差しカメラ


境内には、真田信繁(真田幸村)の墓があるとココロ
の手持ち資料にはあるが、どこにあるかさっぱり分からない笑い泣きアセアセ


掃除をしている方に聞いた耳けど、やっぱり分からないチュー

帰って調べたら虫めがね妙心寺塔頭【大珠院】にあるようだチューアセアセ

次回はリベンジするぞお願いチューアセアセ


【鏡容池】
国の名勝。

この池は円融天皇の御願寺である【円融寺】があった頃からのものであるという。


一帯は【鏡容池】を中心とする庭園となっている。


【大弁財尊天】

【鏡容池】にある弁天島に祀られている上差しカメラお願い


さてさて、【龍安寺】の目的はいよいよこれからだ上差し

ココロは、その場所を【庫裡】にて確認しておいた…………………ランニングアセアセダッシュ



続く……………………。