さてさて…………………

【まるか食堂】にて、至福のランチタイムナイフとフォークをとって元気モリモリのココロは、次の目的地へと向かって歩いた…………………ランニングアセアセダッシュ


【開田城跡の土塁】


歩いていると、史跡に出会うランニング


【八条ヶ池】


この【八条ヶ池】上差しカメラの向こうに【長岡天満宮神社】が鎮座する。

【長岡天満宮神社】のココロ過去ブログはこちら上差し


【下海印寺の方形居館】


【西山田遺跡】


【まるか食堂】から次の目的地が、一番遠くてしんどかった笑い泣きアセアセアセアセアセアセ

ようやく、ついに目的地が見えてきたぞーーーーっ!!!!目


ココロが苦労アセアセして、ようやく到着した目的地。


あっ!!!!

駐車場車もきちんと準備されている上差しカメラ


説明書きも丁寧にあった上差しカメラ

その目的地は「天皇陵」だ!!


歴代天皇は今上天皇が126代目。
昭和天皇までの124の「天皇陵」がある。

ココロの記録を確認する虫めがねと、この日までに102の「天皇陵」に参拝お願いしていた。

したがって、この場所が103つ目の「天皇陵」となる上差し


到着したのは…………………ランニングアセアセダッシュ


【土御門天皇 金原陵】
京都府長岡京市金ケ原金原寺

宮内庁上の形式は八角丘。


【土御門天皇(つちみかどてんのう)】
1195年ー1231年
日本日本の第83代天皇。


後鳥羽天皇の第一皇子。
母は源通親の養女承明門院源在子


建久9年(1198年)1月11日、父後鳥羽天皇の譲位により3歳で践祚。
立太子はしていなかった。同年3月3日、即位。


事実上後鳥羽上皇による院政がしかれていた。



しかし、穏和な性格が幕府との関係上心許ないとみた後鳥羽上皇は、退位を迫りガーン承元4年(1210年)、異母弟の順徳天皇に譲位し、上皇となる。

京都では、外祖父である源通親が別当として権力を掌握し、鎌倉では正治元年に源頼朝が亡くなりえーんアセアセ、事実上北条時政による御家人政治が行われていた。


承久3年(1221年)の「承久の乱カブトナイフ」の際には、土御門上皇は何も関与していなかったので、処罰の対象にはならなかったが…………

『父である後鳥羽院が遠流であるのに、自分が京にいるのは忍びない…………えーん

と、自ら申し出て土佐国に流されたえーんアセアセ

※異母弟の順徳天皇も流刑となり、甥の仲恭天皇は短期間で廃された。


後に、より都に近い阿波国に移された。

鎌倉幕府も後鳥羽順徳両上皇とは違って、守護に対して阿波ね宮殿を造営させるなどの厚遇ぶりを見せている。


その地は、現在の阿波市御所など諸説あるが特定されていないというえーんアセアセ

寛喜3年(1231年)10月に出家し、同月崩御したえーん

宝算37。


11年後の仁治3年(1242年)、京都にいた土御門上皇の皇子邦仁王後嵯峨天皇として即位し、以後その子孫によって皇位継承が行われた。



続く…………………。