さてさて…………………


【添御県坐神社(そうのみあがたにいますじんじゃ)神社】を後にして、駐車場に戻ります……………ランニングアセアセダッシュ


うーーーーんチュー

左の石碑上差しカメラが気になるチュー

ちょっと、覗き目にいこうかなウインクランニングアセアセダッシュ


【根聖院(こんしょういん)】
奈良県奈良市三碓(みつがらす)3丁目5-13


境内には入れそうだ上差しカメラ

んっ!?!?!?目


三碓(みつがらす)地名起源の石上差しカメラ!?!?!?

これは気になる上差しびっくりアセアセ


【梵鐘】

【添御県坐神社神社】に隣接するように建っている真言律宗のお寺。


現在は、【西大寺】の末寺だという。

その境内にあるのが…………………


【三碓地名起源の石】

【根聖院】のあるこの場所は、「三碓(みつがらす)」という町名で、この地名の由来となったという『いしうす』が【根聖院】にあるというびっくりアセアセアセアセ

難読漢字ばかりが出てくるなっ笑い泣きアセアセアセアセ


これかーーーーーっ!!上差しカメラびっくりアセアセアセアセアセアセ


今から約1300年前の奈良時代、小野福麿(おののふくまろ)がこの地域を治めていた。

住居とは別に、この場所に「三ッ碓(からうす)」を置き、米を搗かせていたが、鳥狩りに御幸された聖武天皇がご覧になり、この土地を「三碓(みつがらす)」と名付けられた。


この碓は、搗き碓で、朝鮮半島と戦った後に、米を搗く文化と共に大和に渡って来たと考えられている。


この窪み上差しカメラに穀物を搗いていたのか!?!?


『古事記』には、播磨の国でもこのような石碓上差しカメラが使用されていたと伝えられているという。


【本堂】


御本尊は薬師如来。


うーーーーん。

前回のブログにも書いたが小野福麿は、30代敏達天皇の直系の末裔で、春日皇子小野妹子の子孫にあたるという。

しかし、天平10年の農民一揆の際に襲われてガーンアセアセ、従者とともに殉死したというガーン

対して長髄彦は、大和の先住民の首長で、神武東征による大和平定の際に、捲土重来を期して蜂起を図る先住民を説き伏せた上に自害した。

今回恥ずかしながら、初めて小野福麿を知ったけど、長髄彦(ナガスネヒコ)小野福麿……………

なんだか重なる共通点。

もしかして………………

ふたりは同一人物ではないだろうか!?!?!?キメてる

次回、【添御県坐神社神社】に参拝お願いに来た時には、宮司おじいちゃんさんに聞いてみよう上差しウインク



続く……………………。