さてさて……………


【岩倉具視幽棲旧宅(いわくらともみゆうせいきゅうたく)】
京都府京都市左京区岩倉上蔵町100

こちらは【表門】上差しカメラ


建物は質素な平屋建て二棟で、うち南側(表側)の一棟は移住後の元治元年(1864年)に、増加する来客に対応するため増築されたもの。


具視死去後の明治35年(1902年)に、移住当初から建っていた北側の棟の屋根の一部が茅葺きから瓦葺きに改築されたが、ほぼ当時のまま残され、その後昭和7年(1932年)に国の史跡に指定されている。


その岩倉具視には、ある疑惑がある上差しキメてる


それは、加治将一(かじまさかず)の『幕末 戦慄の絆』にも記されている鉛筆


今読んでる最中やけどチューアセアセ


元治元年(1864年)7月19日に『禁門の変(蛤御門の変)銃』が発生し、京都の攘夷強行論者が一掃されたが、赦免はなく、具視は引き続き岩倉村で暮らした。


【岩倉具視(いわくらともみ)】

しかし、薩摩藩や朝廷内の同志たちが再び岩倉のもとへ訪れるようになり、慶応元年(1865年)の秋ごろからは岩倉も政治意見書を書く鉛筆など、朝廷や薩摩藩の同志に送るなどの政治活動を行うようになった。

そして、この間に岩倉は薩摩藩の動向に呼応する形で従来の公武合体派だった立場を倒幕派へ変更した。


慶応2年(1866年)6月7日から始まった第二次長州征伐は長州軍の決死の反攻で、幕府軍の苦戦が続く中、7月18日には広島藩主浅野長訓、岡山藩主池田茂政、徳島藩主蜂須賀斉裕ら外様大名が孝明天皇に政長軍解体の建白書を提出。20日には薩摩藩からも解兵の建白書が出された。


岩倉も薩摩藩と同様、解兵および長州藩との和解に賛成し、かつての勤王の功績を重んじて『禁門の変』は寛大な処置で許すべきと主張した。

そして朝廷首脳部、特に中川宮を徳川慶喜松平容保の報告を鵜呑みにして天下の大勢を見ない人物と評して激しく批判した。


岩倉は朝廷の悪執政を正すため再び列参を画策。この意見に中御門経之が賛同し、薩摩藩の井上石見藤井良節らが工作に当たった。

8月30日、朝廷改革を掲げて中御門経之はじめ二十二卿が連なって参内した(岩倉は参内禁止中)。


【遺髪碑】


【中庭】
雪が残っている雪だるま


そんな中の12月25日、孝明天皇が天然痘により崩御ガーン

宝算37(満35歳没)。


政治混乱期の突然の崩御であったため、この崩御には古くから毒殺説ガーンがあり、岩倉が容疑者として疑われたが、事の真相は不明だ………………キメてる


【岩倉具視幽棲旧宅】のウェキペディアより上差しカメラ

【主屋】の玄関前にあるのは『クチナシの木』。

これはびっくりアセアセ

何かを暗示しているように感じるココロであったキメてる


この【主屋】の形態は大河ドラマなどで出てくる岩倉具視に志士たちが会いに来る場面で見たものと同じびっくりアセアセ

初めて訪れたようか気がしなかった。


【対岳文庫(たいがくぶんこ)】
岩倉具視の遺品類などを収蔵するため、昭和3年(1928年)に建設された。

昭和初期を代表する建築家の武田五一(たけだごいち)の設計だ。


【対岳文庫】の「対岳」とは、具視の雅号で、岳は比叡山を指し、その向い側に住んでいるという意味合いであるという。

洋館に入ったすぐの扉の上に『対岳文庫』と書かれた扁額がある上差しカメラこれは、昭和4年春に具視の孫である東伏見宮周子(ひがしふしみのみやかねこ)が揮毫鉛筆したものであるという。

歴史を体感出来る場所に来れたことに満足したココロは、【岩倉具視幽棲旧宅】を後にした……………ランニングアセアセダッシュ



続く…………………。