さてさて………………


【三千院】を出発したココロは、次なる目的地を目指した…………………ランニングアセアセダッシュ


【三千院】への参道入口には、こんな石碑上差しカメラもありました。

はいっ!!!!

ココロが目指した次なる目的地とは……………ランニングアセアセダッシュ


【後鳥羽天皇大原陵】
【順徳天皇大原陵】

京都府京都市左京区大原勝林院町


引き続きの雪景色雪だるまの初参詣お願い 


 【後鳥羽天皇(ごとばてんのう)】
1180年〜1239年
日本日本の第82代天皇。

高倉天皇の第四皇子。
後白河天皇の孫で、安徳天皇の異母弟にあたる。

文武両道で、「新古今和歌集鉛筆」の編纂でも知られる。 

鎌倉時代の承久3年(1221年)に、『承久の乱カブトナイフ』で鎌倉幕府執権の北条義時に対して討伐の兵を挙げたが敗北し隠岐に配流され、延応元年(1239年)に同地(隠岐)で崩御した。




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後鳥羽天皇順徳天皇を祀るお願い【水無瀬神宮神社】のココロ過去ブログはこちらから上差しウインク


【順徳天皇(じゅんとくてんのう)】
1197年ー1221年
日本日本の第84代天皇。

後鳥羽天皇の第三皇子。
母は、藤原範季の娘重子(修明門院)。


親子一緒に葬られているんだびっくり


順徳天皇は、父後鳥羽上皇の倒幕計画に参画し、それに備えるため、承久3年(1221年)4月に子の懐成親王(仲恭天皇)に譲位して上皇の立場に退いた。

父上皇以上に鎌倉幕府打倒に積極的で、5月に『承久の乱カブトナイフ』を引き起こしたものの倒幕は失敗に終わったえーんアセアセ

乱後の7月21日、順徳上皇は都を離れて佐渡へ配流となった。


在島21年の後、仁治3年(1242年)9月12日に佐渡で崩御したえーんアセアセ


上皇と近かった平経高の『平戸記鉛筆』の仁治3年10月10日条に「御帰京事思食絶之故云々」とあることから、同年初めの四条天皇の崩御後に鎌倉幕府が自分の皇子である忠成王を排除して土御門上皇の皇子である邦仁王(後嵯峨天皇)を即位させたことで、自らの帰京と子孫への皇位継承に対する幕府の強い拒絶の意思を知った上皇が絶食による事実上の自殺を図ったガーン可能性も指摘されているびっくりアセアセ


配流後は佐渡院と称されていたが、建長元年(1249年)7月20日順徳院と諡された。


宮内庁上の形式は円丘。


崩御翌日に佐渡真野山にて火葬されたが、寛元元年(1243年)4月に遺骨は都に持ち帰られ、翌月に後鳥羽院の【大原法華堂】の側に安置された。

堂は後に荒廃して所在も不明となったえーんアセアセが、元禄探陵の際に、この地が陵に擬定され、明治22年(1889年)正式に治定された。


【拝所】から振り返ったら、こんな景色雪だるまでした上差しカメララブ


大原法華堂
後鳥羽上皇順徳天皇の死後、後鳥羽上皇と血縁関係にある【三千院】の門主梶井宮は上皇の菩提を弔うため、この【法華堂】を建造した。


当初、後鳥羽上皇の遺骨は【法華堂】に収められていたが、明治になって【大原陵】が建造されたことにより、遺骨は【大原陵】に移されたという。

元の「天皇陵」だった場所なのだ!!!!上差しびっくり


当初の建物は1736年に焼失してしまうがえーんアセアセ、現在ある建物は1778年に再建されたものだという。

またひとつ目的を達成したココロは、次なる目的地へと向かう…………………ランニングアセアセダッシュ



続く………………。