さてさて……………

【高倉天皇皇后徳子 大原西陵】に隣接している次の目的地に、ココロは到着した……………ランニングアセアセダッシュ


到着したのは………………


【寂光院(じゃっこういん)】
京都府京都市左京区大原草生町676


開基(創立者)は聖徳太子と伝わる。

平家滅亡後隠棲した場所であり、『平家物語鉛筆』ゆかりの寺として知られている。


【寂光院】の草創について明確なことはわかっていない笑い泣き

寺伝では推古天皇2年(594年)、聖徳太子が父用明天皇の菩提のため開創したとされる。


受付にて拝観志納金を納めるコインたち


御朱印帳をお預けして………………


いざっ!!!!


【山門】

こちらも雪の石段を昇りきると、【山門】上差しカメラが出迎えてくれるウインク


【本堂】
淀殿豊臣秀頼の命で片桐且元が奉行として慶長年間(1596年〜1615年)に再興したものであったが、平成12年(2000年)に放火で焼失したびっくりアセアセ

犯人キメてるは未逮捕のまま平成19年(2007年)時効が成立しているえーん

平成17年(2005年)に再建された。同時に新しく作られた本尊や徳子阿波内侍の像も安置されている。


史料がなく詳細は分からないため、建礼門院に仕えて後に出家し、【寂光院】の住持をしていた阿波内侍(信西の息女、証道比丘尼)を第2代の住職としている。

阿波内侍は「大原女」のモデルとされている人物でもある上差し


ぐるっと回り込み、【本堂】の中に入り参詣させて頂いたお願い

足は雪で濡れてとても冷たかったが、ストーブで温めさせて頂き回復したチュー

文治元年(1185年)9月、壇ノ浦で平家一族が滅亡した後も生き残った高倉天皇の中宮で、安徳天皇の生母である建礼門院徳子(平清盛の娘)は、阿波内侍を頼って入寺し、出家して真如覚比丘尼と称し後に第3代住持となって【寂光院】で余生を送ったという。


御朱印も頂きました上差しカメラ
もちろん!!もちろん!!初となるお祝い

境内の外、西側には阿波内侍の墓もあり行く気満々であったが、寺務所の方に……………

ニコニコ『今日は雪かきもしてませんし、長い階段があり危ないので行かないほうがいいです。』

と忠告があったので、泣く泣く諦めることとした笑い泣きアセアセ


近くの【大原山荘】の駐車場は、一日300円。
たぶんここが一番安い上差し

次回は車車で来て、ここに停めさせてもらって観光しようかな口笛


仕方なく笑い泣きアセアセココロは来た道(大原女の小径)を引き返して、雪の中雪だるま次の目的地を目指す………………ランニングアセアセダッシュ


あっ!!!!

もうひとつ!!!!

【惟喬親王(これたかしんのう)御墓】も近くにあったけど、さらに険しい道になりそうなんでチューこちらも諦めた笑い泣きアセアセアセアセ

季節の良い時に必ずリベンジするぞっ!!ウインク



続く…………………。