さてさて………………
【朧の清水(おぼろのしみず)】
【平徳子(たいらのとくし)】
1155年ー1214年
日本
の第80代天皇
高倉天皇の皇后(中宮)。
院号は建礼門院(けんれいもんいん)。
安徳天皇の母。父は平清盛、母は平時子。
平清盛と
後白河法皇の政治的協調のため、
高倉天皇に入内して第一皇子
言仁親王(後の
安徳天皇)を産む
。
安徳天皇の即位後は国母となるが、
高倉天皇と
清盛が相次いで没し、
木曾義仲の攻撃により都を追われ、『
壇ノ浦の戦い』で
安徳天皇・
時子は入水、平氏一門は滅亡する
徳子は生き残り京へ送還されて出家。
大原【寂光院】で
安徳天皇と一門の菩提を弔った
「朧(おぼろ)」とは、春の季節の月光の意味。
おぼろ月夜の時、水面を通して映るやつれた自身の姿を見て
、身の上を嘆いた
といわれる場所だという。
近づいていることが実感できる。
「しば漬け」と「大原女」に関しては、また追々ブログに書こう
【高倉天皇皇后徳子 大原西陵】
【寂光院】隣接地にある宮内庁管轄の陵。
無事に到着
徳子が【寂光院】に入った後に、大原を訪れた建礼門院右京大夫は……………
ご庵室やお住まいの様子など、すべてまともに見ていられないほどひどいものであった。
都ではわが世の春を謳歌して美しい着物を着重ねて仕えていた女房が、60人余りいたけれど、ここは見忘れるほどに衰えた尼姿で、僅かに3、4人だけがお仕えしている。
と涙を流し
……………
■今や夢 昔や夢と まよはれて
いかに思へど うつつぞとなき
(今が夢なのか、それとも昔が夢なのかと心は迷い、どう考えても現実とは思えません)
■仰ぎ見し 昔の雲の 上の月
かかる深山の 影ぞ悲しき
(雲の上のような宮中で見た中宮様を、このような深山で見るのは悲しいことです)
と歌を詠んでいる。
そんな建礼門院徳子の陵を訪れる事が出来た。
振り返ると、階段には自分の足跡
しかない。
幕末でも、幕府側(新選組など)と倒幕・開国派(坂本龍馬など)もどちらもそれぞれの正義で動いていた事が理解出来た。
続く……………………。