さてさて…………………

【元祇園梛神社神社】を出発した我々は、近藤勇芹沢鴨らもかつて歩いたであろう道をてくてく歩き、次の目的地を目指した……………ランニングランニングランニングランニングアセアセダッシュ

おっ!!!!

見えてきたぞっ!!!!目


【島原(しまばら)】
京都府下京区に位置する日本及び「京都五花街」で最古の花街の名称。『嶋原』とも書く。


室町時代に足利義満が、現在の東洞院通七条下ルに許可した傾城町が日本日本の公娼地の始まりといわれる。

桃山時代(1659年)には、豊臣秀吉の許可を得て原三郎左衛門らが二条万里小路に「二条柳町」を開設した。

江戸時代になると六条付近に移されて「六条三筋町」と呼ばれるようになり、吉野太夫などの名妓ニコニコを輩出した。

ところが、1641年にはさらに朱雀野付近への移転が命ぜられ、以後【島原】と呼ばれた。

【島原】の名称は、この移転騒動が『島原の乱ナイフ』時の乱れた様子に似ていたためについたという説があるびっくりアセアセ


【島原大門】

新しい土地の周りは壁や堀に囲まれ、出入り口として東の大門上差しカメラが出来た。


【島原】は元禄期に最も栄えたが、立地条件が悪かったこと、また格式の高さが原因となって祇園町祇園新町上七軒二条などの遊里に人が流れ、その後は幾度かの盛衰を繰り返したものの、次第に衰えていったえーんアセアセ


廓の女性たちニコニコニコニコニコニコは、自由に廓の外へ出ること(通行手形が必要であった)ができ、一般人(男女問わず)でも自由に出入りができたようだ。

清河八郎頼山陽のように、実母おばあちゃんを「親孝行」として揚屋で遊ばせた例もあり、外部から「閉ざされた」遊所ではなかった。


幕末には、西郷隆盛久坂玄瑞新選組らが出入りしていた。1873年には、のちに歌舞練場となる【島原女紅場】が置かれた。

そして、到着したのが………………ランニングランニングランニングランニングアセアセダッシュ


【角屋(すみや)】
京都府京都市下京区新屋敷揚屋町32

かつて京都島原花街で営業していた揚屋(料亭・饗宴施設)。建物は国の重要文化財に指定された。


天正17年(1589年)、豊臣秀吉によって柳馬場二条に傾城町「柳町」が開かれ、初代徳右衛門が【角屋】の営業を始める。

慶長7年(1602年)、「柳町」は突然の移転を強いられ、【角屋】も六条三筋町へ移転を余儀なくされたえーんアセアセ

さらに寛永18年(1641年)、再度「柳町」は移転となり、【角屋】は二代目徳右衛門によって現在地の【島原】へ移された。


幕末には久坂玄瑞西郷隆盛などの勤王の志士が密議を交わしたり、豪商からの資金調達札束のために接待に使用されていた。

また、『新選組』もここで遊興を楽しんだ日本酒
特に芹沢鴨との関わり合いは深く、文久3年(1863年)6月この【角屋】で暴挙ムキーをはたらき、その際に出来た刀傷が今でも残っている。

【角屋】の前には、『新撰組刀傷の角屋』の石碑が建てられている上差しカメラ


平成元年(1989年)より1日30人限定で内部を公開していたが、平成10年(1998年)4月には【角屋もてなしの文化美術館】が開館し、一般に公開されている。

この日は、ちょうど休館期間中でした笑い泣きアセアセ
※令和5年12月16日〜令和6年3月14日まで文化財維持管理のための休館でしたチュー


明治5年(1872年)まで営業した後、お茶屋に編入された。


2014年現在、家名は十四代目に継承されており、館長を勤めている。

現在一般公開は一階部分のみ。損傷部分の保存を考え、二階座敷見学目には事前予約が必要となっている。

所蔵品は約11,000点にのぼるというびっくり

休館期間が終了したら、また訪れよう口笛


はい!!!!

『お疲れ様でしたーーーっ!!!!生ビール生ビールジュースジュース

Nさん、Fさんの西国三十三所初参拝お願いもできたし、幕末の坂本龍馬おりょう、『新選組』にまつわる場所にも行けたお祝い

昨年出来た土方歳三像にも会えた口笛


そして、この日もよ〜〜〜く歩いたランニングアセアセダッシュ


『山の辺の道を歩くランニング』ツアーからの急遽変更となったが、大満足おねがいの『開運辰年京街ブラツアー』電車ランニングランニングランニングランニングアセアセダッシュは、無事に…………………



終劇。