さてさて………………
【八木家住宅】のほぼ向かいにあるのが我々の次なる目的地
到着したのは……………
【旧前川邸】
京都府京都市中京区壬生賀陽御所町49
江戸後期の天保年間(1831年〜1845年)に当時の当主前川荘左衛門義陳の子が壬生の八木重次郎家を相続し、次代より姓を八木から前川と改めて壬生の前川家は誕生した。
幕末の文久3年(1863年)3月、壬生【前川邸】の向かいにある【八木邸】を最初の屯所にしていた『新選組』は、隊士の増加に伴い手狭となったことから、【前川邸】や【八木邸】北隣の【南部邸】にも出入りするようになり、元治元年(1865年)3月10日に【西本願寺】へと移転されるまで2年間『新選組』の屯所として使用された。
【前川邸】は総坪数が443坪、土蔵を抜いた273坪の平屋建で、部屋は12間、畳数にして146畳もあり、近藤勇や土方歳三といった『新選組』の幹部たちは【八木邸】ではなく主にこの【前川邸】を拠点としていたとも言われている。
そして、『新選組』の屯所となった2年もの間【前川邸】には隊士にまつわる様々な出来事が起こった。
文久3年(1863年)芹沢鴨が暗殺された事件の際には、土方らは芹沢一派が島原から戻り、部屋の明かりが消えるのを見届けてから【八木邸】に討ち入ったといい、事件後の葬儀は【前川邸】で行われたと伝わっている。
さらに、その年の暮れには水戸派の生き残りであった野口健司が【前川邸】の綾小路通に面した一室で切腹し、翌元治元年(1864年)6月5日に発生し『新選組』の名を一躍有名にした「池田屋事件」の端諸となった古川俊太郎への拷問は、【前川邸】の東の土蔵で行われた
※蔵は通常未公開のため写真はネットから拝借しております
はい
【旧前川邸】を出たすぐにあるお店
※写真はネットから拝借しております
「金つば」の【幸福堂】
明治元年創業の本家の分家で、【壬生寺】の参詣者に一休みしていただくお店として創業したのがはじまりとか。
もちろん
入りまーーーーーす
頂きまーーーーーーした
『誠』の字がちょっと薄くなってたけど
美味しかったです
せっかくなんで、最後に芹沢鴨が暗殺された日に飲んでいたという京都の花街のひとつ【島原】まで我々は行くことを決め、再びてくてくと歩き始めた……………
続く…………………。