さてさて………………

【壬生寺】を出発し、徒歩ランニングすぐにあるのが我々の次なる目的地だ上差し

到着したのは…………………ランニングランニングランニングランニングアセアセダッシュ

こちらも、【壬生寺】同様2018年11月24日以来、約5年ぶり2回目の訪問となる………………ランニングランニングランニングランニングアセアセダッシュ


【新選組屯所遺蹟】

新選組発祥の地、壬生屯所旧跡「八木家」にある和菓子屋お団子さんだ。


この【京都鶴屋】さんの店内に入ると……………ランニングランニングランニングランニングアセアセダッシュ


『拝観券』を購入することが出来る上差しカメラ

大人@1,100円でガイド・お抹茶お茶屯所餅お団子

ガイドツアー開始まで、しばし休憩タイム上差し


【八木邸】は、郷士八木家の邸宅で幕末に『新選組』の屯所として使われた。


八木家の始祖は八木又兵衛。壬生村の郷士。越前の戦国大名カブト朝倉義景の子。

室町時代に京の壬生に移ったとする。


いよいよガイドツアーの始まり始まり〜〜〜っ!!

【八木邸】の中の様子は、写真撮影カメラNGバツレッドでした笑い泣きアセアセ


源頼朝より、現在の家紋(三つ木瓜)上差しカメラを拝領したと伝わる。


文久3年(1863年)2月23日、浪士組として上洛した近藤勇と試衛館一門の7名、及び芹沢鴨新見錦平山五郎平山重助野口健司らが投宿した。


その後、浪士組の江戸への引き上げの際に残った芹沢鴨近藤勇ら13名はそのまま【八木邸】に残り、同年3月16日「松平肥後守御領新撰組宿」と八木家右門柱に表札が掲げられた。

芹沢鴨が暗殺された際に付いたとされる刀傷も【八木邸】に残っており、一般に公開されている。


『芹沢鴨の暗殺』
※写真上差しカメラはイメージでお借りしましたチュー

文久3年(1863年)9月、芹沢が懸想していた吉田屋の芸妓小虎が肌を許さなかったため、立腹した芹沢吉田屋に乗り込み、店を破壊すると主人を脅して、小虎と付き添いの芸妓お鹿を呼び付け罰としてふたりを断髪させる狼藉を行ったムキー

これらの所業に、朝廷から芹沢の逮捕命令が出たことから、会津藩は芹沢の所置を命じたキメてるともいわれる。

9月16日(18日説もあり)、『新撰組』は島原の【角屋】で芸妓総揚げの宴会を開いた日本酒芹沢平山五郎平山重助土方歳三らと早めに【角屋】を出て壬生の【八木家】へ戻り、【八木家】で再び宴会を催した日本酒日本酒
その席に芹沢の愛妾のお梅平山の馴染みの芸妓、桔梗屋吉栄、平間の馴染みの林違屋糸里が待っており、宴席日本酒が終わるとすっかり泥酔した芹沢らは女たちと同衾したzzz


京都新選組同好会』隊士募集の案内上差しカメラ

大雨傘が降る深夜、突然数人の男たちが芹沢の寝ている部屋に押し入り、同室で寝ていた平山を殺害し、芹沢に斬りつけたナイフ

驚いた芹沢は飛び起きて刀を取ろうとするが叶わず、真っ裸のまま八木家の親子が寝ていた隣室に飛び込むが、文机につまずいて転び、そこを刺客たちがよってたかってズタズタに斬りつけたナイフナイフガーン

この時芹沢は八木家の息子勇之助の上に倒れ込み、刺客たちはそこに斬りつけたため、刀の鋒先が寝相の悪かった勇之助の右足に当たり、怪我を負わせたというびっくりアセアセ


街ブラで見た『京都新撰組同好会』の看板上差しカメラ

平山の死体は胴体と首が離れており、芹沢と同衾していたお梅も巻き添えで首を切られ殺されたガーン

別室にいた平間は逃亡ランニングアセアセダッシュし、吉栄糸里も難を逃れ姿を消したという。


拝観料に含まれる抹茶お茶と屯所餅お団子

『新撰組遺聞』では、八木源之丞の妻まさ土方歳三が夜中にしきりに様子を伺っているのを目撃しており、現場には沖田総司原田左之助は確かにおり、山南敬介もいたのではないか!?と記している鉛筆

永倉の『浪士文久報国記事』によると、暗殺は土方沖田藤堂平助御倉伊勢武らが実行したとある。西村兼文は実行者は土方沖田山南原田としている。


事件は長州藩士の仕業とされ、9月18日(20日説もあり)に芹沢平山の葬儀が神式に則り盛大に執り行われた。

20日に近藤勇芹沢平山が「変死」したことを記した手紙メールを郷里多摩の佐藤彦五郎へ送っているという。


芹沢の墓は、【壬生寺】につくられた。

歴史に残る事件が起きた場所に立ち、リアリティーと熱を感じた。

間違いなく必死に日々を生きていたあの人たちを。



続く…………………。