さてさて………………
我々が次に到着したのは……………
【清閑寺(せいかんじ)】
京都府京都市東山区清閑寺歌ノ中山町3
山号は歌中山。
『平家物語』の悲恋で知られると高倉天皇と小督局ゆかりの寺院であるという。
【歌の中山 石碑】
【清閑寺】の山号にも使われている「歌中山(歌の中山)」は、現在は【清水寺】の音羽の滝から南へ向かい、【清閑寺】に至る山路を指している。
地名は【清閑寺】の真燕僧都が門前で美女を見かけ、俗念を起こして清水までの道程を尋ねたところ、その美女は
見るにだに まよふ心の はかなくて
まことの道を いかでしるべき
と歌を返して姿を消し、詠まれた場所がこの地であったという寺伝による。
寺伝によると延暦21年(802年)に天台宗の寺として比叡山の紹継法師によって創建されたが後に荒廃した
一条天皇の時代に播磨守佐伯公行が鎮護国家の道場として再興し、宝塔や山神堂などを建立し、菅原道真作と伝わる十一面千手観音を本尊に安置して【清閑寺】と号した。
【小督の局 供養塔】
平安時代の末期には、高倉天皇の寵愛を受けた小督局(こごうのつぼね)が平清盛の怒りに触れて【清閑寺】に出家させられている。
『剃髪させられる小督』
しかし中宮の平徳子(建礼門院)の父で冷泉隆房の舅でもあった平清盛の怒りに触れ、治承元年11月(1177年12月)に第二皇女の範子内親王(坊門院)を出産したのちに【清閑寺】で出家させられた
元久2年(1205年)に藤原定家が嵯峨で小督局の病床を見舞った記録が残るが、その後の消息は不明だという
この悲哀の話は『平家物語』巻六や『たまきはる』に登場するほか、能の『小督』にも取り上げられている。
境内には小督局を供養する宝篋印塔があるほか、【高倉天皇陵】内にも小督局の墓と伝える宝篋印塔が存在するという
おっ
前庭には、巨石の一部が露出している場所がある
こちらは一体何だ
願いあらば あゆみをはこべ
清閑寺
庭に誓いの 要石あり
【要石(かなめいし)】
ここから扇を開いたように京都市街が眺望でき、扇の要の位置にあたることから【要石】と呼ばれている。
現在は玉垣に囲われて四隅に御幣が立てられており、「誓いを立てると願いが叶う」とされる信仰の対象になっている
【鐘楼】
【鐘楼】の上方にあった茶室「郭公亭」は、幕末の安政5年(1858年)に西郷隆盛と【清水寺成就院】住職の月照上人が密談した場所であったという
昭和初期には、改修も行われたが腐食による老朽化が進んだため、平成3年(1991年)7月に解体された
【鐘楼】前には、『大西郷月照王政復古謀議舊趾』と彫られた石碑が現在も建っている
東山山中に威容を誇った【清閑寺】も『応仁の乱』に巻き込まれ、清水山に布陣する西軍によって堂舎が破却されて荒廃した
明治維新後の明治4年(1871年)、社寺領上知令によって寺領の大部分が上地として官有地に編入され寺運は著しく衰退し、明治34年(1901年)には鎮守社の【山王神社】が【清閑寺】から独立し、東山区清閑寺池田町に移転した。
昭和初期に境内の整備が行われて現在に至る。
いやいや、こんな素敵な【清閑寺】にも『京都一周トレイル』を歩く機会がなければ、参詣することがなかったかもと思うと、今回の企画が素晴らしいものであるという満足感が、この時点で湧き上がる。
さてさて…………………
我々は、ゴールを目指して再び歩き始めた……………
続く…………………。