さてさて………………

【藤白神社(ふじしろじんじゃ)神社
和歌山県海南市藤白466


【社務所】にて、預けていた御朱印帳を取りに再び立ち寄った……………ランニングランニングランニングアセアセダッシュ

職場に『鈴木さんニコニコ』が居てるので、お土産に「鈴木家御守上差しカメラを購入することを決めるも、色に悩むココロチューアセアセ

どっちがいいかなあ!?チューアセアセ


おっ!!びっくりアセアセ

小野田さんだ上差しカメラアセアセ

【藤白神社神社】の氏子だったというびっくりアセアセ


【小野田寛郎(おのだひろお)】
1992年〜2014年
日本の陸軍軍人。和歌山県海草郡亀川村(現:海南市)に生まれる。

情報将校とし、第二次世界大戦に従軍し遊撃戦(ゲリラ戦)を展開、第二次世界大戦終結から29年を経て、フィリピン・ルバング島から日本日本に帰還した。

帰国後小野田に対し、日本国政府は見舞金として100万円を贈呈するが、小野田は拒否する。拒否するも見舞金を渡されたので、小野田は見舞金と寄せられた義援金の全てを【靖国神社神社】に寄付している。
昭和天皇への謁見も断ったという。理由は『万が一、天皇が謝罪するようなことを避けるため』だと言われる……………。


【社務所】にて預けていた御朱印帳を頂きに行く。

はい!!!!

もちろん初となる御朱印上差しカメラお祝いウインク

そして、御朱印を書いて下さったのはMさん。

Mさんおじいちゃん
『今日はどちらからお越しですか!?

鈴木さんはおられますか!?

と、優しく声をかけてくださり、さらに!!!!

『もし、時間があるようでしたら【権現堂】の中を案内させていただきますよ。』

……………とびっくりびっくりびっくりアセアセアセアセアセアセ


【藤白王子権現本堂】
【権現堂】とも呼ばれる。

では、【権現堂】に入りま〜す!!!!ランニングランニングランニングランニングアセアセダッシュ


境内にある【藤白王子権現本堂】は、藤代王子を顕彰するもので、祭神の本地仏3体が祀られている上差しカメラお願い

これらの仏像は、もともと藤代王子の神宮寺であった【中道寺】に祀られていたものであったが、天正13年(1585年)の豊臣秀吉による紀州征伐に際して、危害が及んだ際に縁の寺院に避難させていたものを江戸時代に復したものである。

明治の神仏分離の際の破棄を免れ、今日に伝わっているという。


仏像は、いずれも平安時代末期の作と伝わる。

木造阿弥陀如来坐像ー家都美御子大神の本地仏。
木造薬師如来坐像ー熊野速玉大神の本地仏。
木造千手観音坐像ー熊野夫須美大神の本地仏。

仏=神様の構図。

化身…………まさに権現を表現している上差し


戦禍を免れた仏像は、大変美しかった。
※写真撮影はご了承を得ておりますウインク

守り抜き、現代まで引き継いで下さった多くの先人の方々に感謝の気持ちが心に溢れるお願いお願いお願い


おっ!!!!!!びっくりびっくりびっくりアセアセアセアセアセアセ

これは!!上差しカメラびっくりびっくりびっくりアセアセアセアセアセアセ

Mさんおじいちゃん
『皆さんは、有間皇子についてご存知ですか。この地域や一部の方たちからは「悲劇の王子」として、今も人気があります。』


【有間皇子(ありまのみこ)】
640年〜658年。飛鳥時代の皇族。
孝徳天皇の皇子。母は小足媛

皇極天皇4年(645年)6月14日に父が即位し孝徳天皇となる。孝徳天皇は同年の大化元年(646年)12月9日に都を難波宮に移したが、それに反対する皇太子の中大兄皇子(後の天智天皇)は、白雉4年(653年)に都を倭京に戻すことを求めた。

孝徳天皇がこれを聞き入れなかったため、中大兄皇子は勝手に倭京に移り、皇族たちや群臣たちのほとんどを孝徳天皇の皇后である間人皇女までも、倭京に戻してしまった。

失意の中、孝徳天皇は白雉5年(654年)10月10日に崩御したえーんアセアセ

このため、斉明天皇元年(655年)1月3日、孝徳天皇の姉の宝皇女(皇極天皇)が再び飛鳥板蓋宮で斉明天皇として重祚した。


父の死後、有間皇子は政争に巻き込まれるのを避けるために心の病予防を装い、療養と称して牟婁の湯(白浜温泉)に赴いた。

飛鳥に帰った後に病気が完治したことを斉明天皇に伝え、その土地の素晴らしさを話して聞かせたため、斉明天皇は紀の湯に行幸した。

飛鳥に残っていた有間皇子蘇我赤兄が近付き、斉明天皇中大兄皇子の失政を指南し、自分は皇子の味方であると告げた。皇子は喜び、斉明天皇中大兄皇子を打倒するという自らの意思を明らかにした。

なお近年、有間皇子は母の小足媛の実家の阿部氏の水軍を頼りにし、天皇たちを急襲するつもりだったとする説が出ているというキメてる


ところが蘇我赤兄中大兄皇子に密告したため、謀反計画は露見し(なお蘇我赤兄有間皇子に近づいたのは、中大兄皇子の意を受けたものと考えられるびっくりアセアセ)、有間皇子守大石・坂合部薬たちと捕らえられたえーんアセアセアセアセ


【有間皇子護送経路】上差しカメラ
※Mさんの資料ですウインク

斉明天皇4年(658年)11月9日に中大兄皇子に尋問され、その際に有間皇子は『すべては赤兄と天だけが知っている』と答えたと言われる。

翌々日に藤白坂で絞首刑に処されたというガーン

享年19歳。


その藤白坂には、【有間皇子墓】があったという。

『紀伊名所図会』上差しカメラに描かれている鉛筆右下あたりにある「お地蔵さま」の石像がその【有間皇子墓】と伝わっているとMさんは解説してくれたびっくり


そして、それはなんとこの【藤白神社神社】の近くに現存するというびっくりびっくりびっくりアセアセ

お父さん『お墓までここから歩いて行けますか!?

おじいちゃん『うん。5分ほど歩けば行ける場所だよ。』

それは、是非手を合わせに行かなければお願いお願いお願い


これは木造の有間皇子お願いカメラかな!?

丁重にMさんに御礼を申し上げ、我々は【有間皇子墓】へと向かった………………ランニングランニングランニングランニングアセアセダッシュ



続く…………………。