さてさて………………
5分も歩けば
、すぐに到着したのは……………
【革堂行願寺(こうどうぎょうがんじ)】
京都府京都市中京区寺町通竹屋町上ル願行寺門前町17
寺名が【行願寺】で、【革堂】は通称。
いつかいつかと思っていたけど、知らず知らずに先延ばしにしてしまってた
『百錬抄』『日本紀略』等によれば、【行願寺】は寛弘元年(1004年)、行円が一条小川の一条北辺堂跡地に堂を復興して【行願寺】と名付けたものである。
【本堂】
京都市指定有形文化財。文化12年(1815年)再建。
行円は仏門に入る前は狩猟を業としていたが、ある時、山に身ごもった雌鹿を射たところ、その亡くなった雌鹿の腹から子鹿が誕生するのを見て
、殺生の非を悟って仏門
に入ったという。
行円は、その雌鹿の皮を常に身につけていたことから、「皮聖」「皮聖人」などと呼ばれ、それによって寺の名も【革堂(こうどう)】と呼ばれるようになったという。
なるほど
豊臣秀吉の都市計画のため、天正18年(1590年)に寺町荒神口(現:上京区、京都御苑東側)に移転。
宝永5年(1708年)に起きた「宝永の大火
」後、寺町荒神口の旧地からやや南に下がった現在地に移転した。
普段は、見ることが出来ない格天井が【本堂】の中から見ることが出来る
そして、西国三十三所専用の御朱印帳を準備して…………
この日のミッションを無事に遂行
御詠歌
花を見て いまは望みも 革堂の
庭の千草(ちくざ)も 盛りなるらん
【鐘楼】
京都市指定有形文化財
文化元年(1804年)再建。
それは、江戸時代末期【行願寺】の近くにあった質屋に奉公していた
お文という子守女は、聞き慣れた御詠歌を子守歌がわりに口ずさみ
、その子供
まで御詠歌を覚えてしまった。
慌てた主人はお文の遺体を土蔵に隠し、知らぬふりをしていた。
お文の両親が【願行寺】で通夜
を営んでいたところ、彼女の幽霊が現れ
、事の次第を語ったので、真相が明らかになり、質屋の主人は捕らえられたというものである。
その絵馬にはお文の遺愛の手鏡がはめ込まれているという……………。
続く…………………。