さてさて…………………
【吉備津神社】を出発した我々が、次に到着したのは…………………
ある意味、ココロにとってはこの旅のハイライトであるかも知れない場所だ
その場所とは……………
【楯築遺跡(たてつきいせき)】
岡山県倉敷市矢部
駐車場に車を停めて、いざ……………
現在は、【王墓の丘史跡公園】として整備されている。
その遺跡は、前回の吉備路ツアーから帰って来てから放送されていた『ブラタモリ』に登場(再放送かもですが)していた
前回は、その存在すら知らなかったので、近くまで来て行ってなかった事に、大変悔しい思いをしていたのだ
次の機会には必ず
そのリベンジ機会が訪れたというわけだ
ってな訳で、今回のシリーズは『ブラココロ吉備路編』にしたのです
【楯築遺跡】は、弥生時代後期(二世紀ごろ)に造られたとみられる日本最大の墳丘墓であるという
弥生時代
前回の吉備路ツアーで参拝した【鯉喰神社】と隣接しており、吉備大国の謎を解き明かす鍵になる遺跡ともいわれており、一説によると邪馬台国・卑弥呼の墓であるとも言われている
【鯉喰神社】のココロ過去ブログはこちら
王墓山丘陵の北側に造営された首長の墳丘墓。
墳丘の各所から出土した土器片の多くが壺形土器、特殊器台、特殊壺の破片であるという。
直径約43m、高さ4.5mの不整円形の主丘に北東・南西側にそれぞれ方形の突出部を持ち、現在確認されている突出部両端の全長は72mで、同時期の弥生墳丘墓としては日本最大級であるという
そして………………
ついに………………
念願の………………
主墳の頂上部に到着ーーーーーっ
言葉が出ないっ
5個の巨石が立てられているその場所にだけ、太陽の光が当たり、まるでステージのような舞台となっていた
それは、まるで初めて明日香の【益田岩船】を見た感覚と不思議なくらい全く同じものであった
【楯築神社跡地】石碑
神社もあったんだ
主墳の頂上には、木棺を取り囲むように5個の巨石が立てられ、また斜面にも2列に地表の露出分だけでも高さ・幅とも1mあまりで20個ほどの列石がめぐらされ、北東部の突出部は団地造営工事のために破壊されている
現在は、その名残を一部にとどめているに過ぎないが、前方部状の突出でおよそ10数mほど伸びている。
香川県高松市の【猫塚古墳】や奈良県天理市の【櫛山古墳】などと同じ双方中円墳であるが、先行的な形態をしている。
2世紀末に起こった倭国大乱が終わった後、瀬戸内海沿岸地方では、古墳造営の新しい兆しが見え、この地域で墳丘の造営の動きが見られるようになった。
主墳には2基の埋葬施設が確認され、墳頂中央部地下1.5mに埋葬されていた木棺がこの墓の主人のものと思われる。
墳丘上には大正時代の初め頃まであった【楯築神社】に、代々伝世し、御神体として神石(亀石)と呼ばれる全表面に毛糸の束をねじったような弧帯文様が刻まれた石が安置されていたが、現在はこの遺跡のそばの収蔵庫に祀られているという
『伝世弧帯文石』と呼ばれ、【纒向遺跡】の弧文円板と葬送儀礼で共通するといわれている
見逃したやん……………
暑さとたくさんの蚊のせいだ笑
円陣状に並んだ直立巨石とそれを囲む土塁からなる世界でも有名なイギリス先史時代の遺跡である【ストーンヘンジ】がある
【ストーンヘンジ】
考古学者は、この直立巨石が紀元前2500年から紀元前2000年の間に立てられたと考えている。
夏至の日に、「ヒール・ストーン」と呼ばれる高さ6mの玄武岩と、中心にある祭壇石を結ぶ直線上に太陽が昇ることから、設計者には天文学の高い知識があったのではないかと考えられている
遺跡の目的については、太陽崇拝の祭祀場、古代の天文台など様々な説が唱えられているが、未だ結論は出ていない………………。
このまだ古墳と呼べない時代の【楯築遺跡】。前方後円墳の原型と考えられる遺跡。どのような目的で巨石が立てられたのか…………吉備路は古代ロマン溢れる場所。実際に来る事が出来たこと、見る事が出来たことに喜びを感じていた
続く………………。