さてさて……………


【大避神社(おおさけじんじゃ)神社
兵庫県赤穂市坂越1297番地

後編ですウインク


秦河勝(はたのかわかつ)の祖である秦氏は、3世紀頃に大陸より倭国へ渡来した氏族であり、秦河勝は飛鳥時代の族長的人物として聖徳太子の同志として活躍した人物である。


【拝殿】

京都最古の寺とされる【広隆寺】を建立、聖徳太子より賜った「弥勒菩薩半跏思惟像(国宝)」を安置したとされる。

【広隆寺】近隣には【大酒神社神社】があるが、神仏分離政策に伴って【広隆寺】境内から分散し遷座したものとされ、こちらが『大避(大酒)』と云われる由縁のひとつであるという。


祭神
大避大神 秦河勝を指す
天照皇大神
春日大神


【船絵馬】上差しカメラ

秦河勝は、聖徳太子死後の皇極3年(644年)、海路船をたどって坂越に移り、千種川流域の開拓を進めたのち、大化3年(647年)に80余歳で死去えーんアセアセ

そして地元の民が、その霊を祀ったお願いのが【大避神社神社】の創建と伝わる。


神社神社正面の海上波に浮かぶ【生島(国の天然記念物)】には秦河勝の墓があると伝わりびっくりアセアセ神域となっているため、現在でも人の立ち入りを禁じているというびっくりアセアセ


神社神社には、秦河勝が自ら彫ったか、聖徳太子から賜ったものとされ、雅楽で使用された1300年前の蘭陵王の面が宝物として伝えられている。


河勝は、猿楽の始祖とされており、観阿弥・世阿弥親子や、楽家である東儀家などが末裔を称し、金春禅竹金春流河勝を初世として伝えているびっくり


【本殿】

『播磨国総社縁起』の記述では、養和元年(1182年)に祭神中太神24座に列しており、当時すでに有力な神社神社であったとされる。


別説もあるようで、『風姿花伝』と同時期の1426年に編纂された『本朝皇胤紹運録』には、安閑天皇の皇子であり『秦氏祖』の『豊彦王』が大避大明神であるという記述もあるえー


御朱印は頂けないかなあ!?!?!?チューアセアセ………

と思っていたら、境内を清掃されてる女性の方が居たびっくり

お父さん『こんにちは!!御朱印頂けますか!?

おばあちゃん『書き置きになりますが、ございます。』


こちらが頂いた御朱印上差しカメラ
もちろん、もちろん初となるお祝いウインク

日付は書いて下さいました鉛筆お祝いウインク

お父さん『宮司さんは代々受け継がれているのですか!?

おばあちゃん『はい。三代目になります。』

お父さん『秦氏の末裔の方ですか!?!?

おばあちゃん『いえ、そうではございません。』

なんて、会話がありました。


境内から見る【神門】上差しカメラ

確かに、表の随神に対して、裏側には仁王像が安置されている。まさに背中合わせだびっくりアセアセ

そして…………


その【神門】の向こう側に見えるのは、秦河勝の墓があると伝わる【生島】だ上差しカメラびっくり

なんと、計算されたようなこの配置びっくり
古代の人々に敬意を抱く。

さてさて、我々は駐車場に戻りがてら、出来るだけ秦河勝が眠る【生島】へと近づいてみることとした…………ランニングランニングランニングランニングアセアセダッシュ



続く…………。