さてさて……………
ランチタイムに、念願の【衣笠丼】を食して、大満足のココロたちは次なる目的地に到着した…………
到着したのは…………
【清水寺(きよみずでら)】
京都府京都市東山区清水1丁目294
西国三十三所第16番札所
西国三十三所専用の御朱印帳に、ココロはすでに頂いているが、Nさん、Fさんがまだで、今回の大きな 目的のひとつでもある
【清水寺】の創建は、宝亀9年(778年)に大和国の【興福寺】の僧で当時【子島寺(奈良県高市郡高取町に現存)】で修行していた賢心(後に延鎮と改名)は、夢のお告げで北へ向かい、山城国愛宕郡八坂郷の東山、現在の【清水寺】の地である音羽山に至った
金色の水流を見出した賢心がその源をたどっていくと、そこにはこの山に篭って滝行を行い、千手観音を念じ続けている行叡居士(ぎょうえいこじ)という白衣の修行者がいた
年齢200歳になるという行叡居士は、賢心に「私はあなたが来るのを長年待っていた。自分はこれから東国へ旅立つので、後を頼む」と言い残して去っていった。
行叡は観音の化身であったと悟った賢心は、行叡が残していった霊木に千手観音を刻み、行叡の旧庵に安置した。
これが【清水寺】の始まりであるとされる
この日、ココロが行きたかった【地主神社】は修理のため閉門されていた
また来なくちゃ
Nさん、Fさんは無事に御朱印を頂くことが出来た
その2年後の宝亀11年(780年)、鹿を捕まえようとして音羽山に入り込んだ坂上田村麻呂は、修行中の賢心に出会った。
田村麻呂は妻の高子の病気平癒のため、薬になる鹿の生き血を求めてこの山に来たのであるが、賢心より殺生の罪を説かれ、観音に帰依して観音像を祀るために自邸を本堂として寄進したという。
以上の縁起により、【清水寺】では行叡を元祖、延鎮(賢心)を開山、田村麻呂を本願と位置づけている。
【本堂】
国宝。
徳川家光の寄進により寛永10年(1633年)に再建された。「清水の舞台」とも呼ばれる。
「清水の舞台」
思い切って物事を決断することを『清水の舞台から飛び降りるつもりで……』というが、清水寺塔頭・成就院に残る「成就院日記」の記録によれば、実際に飛び降りた人が元禄7年(1694年)から元治元年(1864年)の間に未遂を含み235件、死亡者は34人に上り、生存率は85.4%であった
飛び降りた動機は、自分の病気の治癒や母親の眼病、暇がほしいといった、「観音様に命を預けて飛び降りれば、命は助かり願いがかなう」という熱い信仰心によるもので、決して自殺する目的ではなかったことに留意する必要がある。
なお、明治5年(1872年)に京都府は「舞台飛び落ち」は封建的な悪習であるとして禁止する布令を出し、舞台欄干周囲に柵を張るなどの対策を施したことで「舞台飛び落ち」は影をひそめた。
【舌切茶屋】
時は幕末【清水寺】の塔頭寺院・成就院に月照(げっしょう)という尊王攘夷派の住職がいた。
月照は倒幕運動に身を投じ、西郷隆盛らと密会を重ね、江戸幕府から危険人物としてマ―クされていた。
ちょうどその頃、大老井伊直弼が反幕思想を抱く者に行っていた非常な弾圧が『安政の大獄』。
1858年、月照は幕府からの捕縛から逃れるため、西郷隆盛を頼って九州に逃亡するが、月照と兄弟僧であり、成就院の寺侍であった近藤正慎は幕府に捕われ、六角牢獄(中京区)で月照の行方や【清水寺】の関与を問われて拷問を受ける
しかし、近藤正慎は決して白状することなく、牢獄の壁に頭を打ちつけ自ら舌を噛み切り、壮絶な最後を遂げた
これが「舌切」の由来だという
一方、薩摩に向かった月照は、幕府の追求を恐れた薩摩藩は月照の入国を拒否し、月照の暗殺を計画する
最後の拠所ともいうべき薩摩藩から邪魔者扱いされた西郷と月照は前途を悲観し、薩摩の海で入水自殺を図る
………………………
結果、月照は亡くなり、西郷は奇跡的に一命をとりとめた。日本の将来を憂い、日本を変えようと志した近藤氏の強い思いによって救われた寺は近藤氏に感謝し、その子孫に境内で茶屋を営むことを許し、現在もその子孫が茶屋を引き継いで営んでいるという
さらに、なんとあの俳優の近藤正臣さんの曾祖父にあたるのが、この【舌切茶屋】の近藤正慎だという
『こんど〜〜〜です』
我々は、次なる目的地へと向かった………
続く……………。