さてさて……………

【知恩院(ちおんいん)】
京都府京都市東山区下町400


後編ですウインク

御朱印も頂きました上差しカメラ
もちろん初となるお祝い


【知恩院】は、浄土宗の宗祖法然房源空(法然)が後半生を過ごし、没したゆかりの地に建てられた寺院で、現在のような大規模な伽藍が建立されたのは江戸時代以降であるというびっくりアセアセ


徳川将軍家から庶民まで広く信仰お願いを集め、現在も京都の人々からは親しみを込めて「ちよいんさん」「ちおいさん」と呼ばれている。


尚、他流で門跡に当たる当主・住職を【知恩院】では浄土門主(もんす)と呼ぶというびっくりアセアセ


知らない事がまだまだあってチューアセアセ、やはり出かけてその場に行けば、何かしら必ず勉強になります鉛筆


そして、境内の階段を上がる………ランニングランニングランニングランニングアセアセダッシュ

ここに来た目的のひとつに到着だーーーっ!!ウインク


【千姫(せんひめ)の墓】

千姫は、安土桃山時代から江戸時代の女性ニコニコ

豊臣秀頼本多忠刻の正室。父は徳川秀忠、母は浅井長政の三女である浅井江(太閤豊臣秀吉の養女達子)。号は天樹院。


慶長20年(1615年)の「大坂夏の陣カブトナイフ」では、祖父徳川家康の命により落城する【大阪城】から救出される。

その後、秀頼と側室の間の娘天秀尼が処刑されそうになった時ガーンに、千姫は彼女を自らの養女にして命を助ける(秀頼淀殿に対する助命嘆願は聞き届けられなかったえーんアセアセ)。


元和2年(1616年)、桑名藩主本多忠政の嫡男本多忠刻と結婚した。

この時、津和野藩主坂崎直盛が輿入れの行列を襲って千姫を強奪する計画を立てていることが発覚し、直盛は家臣により殺害されガーンアセアセ、それを直盛が自害したように見せかけたが、坂崎家は改易処分となったガーンアセアセこれを「千姫事件」という。


千姫は寛文6年(1666年)2月6日、江戸で死去えーん
享年70。

亡くなった夜、曾祖母於大の方の菩提寺である【小石川伝通院】に納められ、導師知艦(知恩院37世)により葬儀お願いが行われた。

墓所は【伝通院】と、茨城県常総市な【天樹院弘教寺】にあり、また徳川家(松平家)が三河時代から帰依していた浄土宗の総本山であるこの【知恩院】に定例により分骨され宝塔に納められたという。

その【千姫の墓】の横に鎮座するのは…………


【濡髪大明神(ぬれがみだいみょうじん)神社
知恩院の七不思議のひとつ【忘れ傘傘】の逸話に登場した白狐(濡髪童子)を祀っているお願いのは、こちら上差しカメラ


こちらは【法然上人御廟】にて上差しカメラ

法然上人の死後、門弟たちの手によって【勢至堂】の東に建てられたもので、法然の遺骨を納めている。

【知恩院】にあって、喧騒を離れた祈りの空間となっているお願いお願いお願いお願い


最後に…………


【法然上人像】

袈裟の造形が躍動感を感じる素晴らしい銅像。桜ガーベラとのコラボが美しい。

戦国武将カブトではないけれど、greatnagoyanさんに評価してもらいたい銅像だ口笛


さてさて……………

我々は、【知恩院】を出発し次なる目的地へと向かった……………ランニングランニングランニングランニングアセアセダッシュ

ここまでで、見どころがたっぷり。予定外の行程にやや時間が押し気味っすチューアセアセアセアセアセアセアセアセ



続く………………。