さてさて……………


割りと、しっかりしたてへぺろ登山道を進むと山頂近くの目的地へと到着した……………ランニングランニングランニングアセアセダッシュ

登山道はきちんと整備されている上差しカメラ


これかーーーーーっ!!!!!!上差しカメラびっくりびっくりびっくりアセアセ


到着したのは……………


【十七烈士之墓】

『禁門の変(蛤御門の変/1864年)』の際、戦いカブト銃に破れ【天王山】山中で自刃えーんアセアセした隊長真木和泉守以下十七名が眠る墓だ…………。

久坂玄瑞来島又兵衛などは知っていたが、恥ずかしながら真木和泉守については知識がないチューアセアセ


【真木保臣(まきやすおみ)】
1813年〜1864年
江戸時代後期の久留米水天満宮祠官、久留米藩士、尊王攘夷派の活動家。

神官として従五位下・和泉守の官位を持ち、真木和泉守として知られる。

楠木正成の崇敬者として知られ、今楠公と呼ばれた。

ココロが読んでいる加治将一の「龍馬を守った新選組鉛筆」に、ちょうど真木和泉守の弟真木外記について書かれており、そこに真木和泉守についてこのように注釈されていた。

蛤特攻で自害した南朝崇拝者の真木和泉守………


真木和泉守は、脱藩浪士を率いて『禁門の変銃』の長州軍側に参加。長州軍の京入りにあわせて、300名が船に分乗し、淀川を上り6月24日に高槻に上陸した。


25日に山崎の天王山、離宮八幡宮、大念寺、宝積寺などに布陣するカブト銃


翌月の7月19日、京都の蛤御門の辺りで、ついに『禁門の変銃』が勃発する。


山崎に陣取った真木和泉守久坂玄瑞も日向町、物集女、桂方面に出陣カブトナイフするが敗退えーんアセアセ


長州軍は総崩れとなり、残兵200名をまとめて退却するが、会津藩、新選組等の幕府軍の追撃を受けるガーンアセアセ


真木和泉守らは、敗軍に長州に落ちのびて再挙を期すように告げると、真木以下十七名は【天王山】に踏みとどまり、金の烏帽子に錦の直垂、水干の衣を着て、鉄砲銃を撃ち、殿軍(しんがり)を務めた。


そして、一戦を交えた後、陣屋に退却し立て籠もり最後は爆死自害したえーんアセアセ

真木和泉守享年52。

この時の模様は新選組の記録に残っているという。


【真木和泉守之墓】上差しカメラ
 
真木の辞世の歌は…………

大山の 峰の岩屋に 埋めにけり
 わが年月の 大和魂

真木和泉守は、久留米の水天宮の祠官であり武士ではなかったが、早くから江戸、水戸に遊学して尊王攘夷運動に活躍し、「大夢記」「義挙三策」などを著し鉛筆尊攘実践に理論的根拠を与えた人物とされる。


【十七烈士之墓】の烈士たちをここに記す。

土 佐 千屋菊二郎菅原孝健
土 佐 松山深蔵橘正夫
宇都宮 岸上弘 安臣
宇都宮 廣田精一執中
土 佐 能勢達太郎平成章
肥 後 小坂小二郎源雄宗
久留米 加藤常吉任重
土 佐 安藤真之助強怒
久留米 真木和泉守平保臣
久留米 松浦八郎寛敏
久留米 池尻茂四郎懋
筑 前 松田五六郎
肥 後 賀屋四郎藤原時雄
肥 後 中津彦太郎藤原義直
肥 後 酒井荘埜之助
肥 後 宮部春蔵
肥 後 西嶌亀太郎

現在、久留米の水天宮内に【真木神社神社】が建立され、真木和泉守は祀られているお願い

貴重な場所に訪れる事が出来た………。

いつか【真木神社神社】にも参拝お願いに行きたいと強く思った。

我々は、さらに【天王山】山頂を目指した………ランニングランニングランニングアセアセダッシュ



続く……………。