さてさて……………

【護王神社神社】のすぐ近く。

次の目的地へ向かうために【京都御苑】を横切り西に向かうのだが、その道中に気になる場所があった…………ランニングアセアセダッシュ


そこは、【護王神社神社】より徒歩わずか数分で到着した………ランニングアセアセダッシュ

これか〜〜〜っ!!!!上差しカメラ


【蛤御門(はまぐりごもん)】
現在の【京都御苑】の外郭九門のひとつ上差し
本来の名称は「新在家御門(しんざいけごもん)」。
門の形状は、高麗門型の筋鉄門だという。


蛤(はまぐり)の名称の由来は、【京都御所】の火災炎の際、滅多に開くことのなかった門がこの時だけは開いたことを「ハマグリ」になぞらえて【蛤御門】という俗称が付けられたとされる。


いずれの火災炎時期とするかについては、『宝永の大火(1708年)』後とする説と、『天明の大火炎(1788年)』後とする説が挙げられている。


元治元年7月19日(1864年8月20日)の『蛤御門の変(禁門の変)銃』では、門の周辺が長州藩との激戦地となった。

現在でも、門柱に命中した弾痕銃を確認することが出来るのだ!!上差しカメラびっくりアセアセ


なお、現在の【蛤御門】は、明治10年(1877年)から明治16年(1883年)にかけて行われた大内保存および京都御苑整備事業によって移設されたもので、それ以前は現在の位置よりも約30m程東に、南を向いて建てられていたというびっくりアセアセ


【蛤御門】から【京都御苑】を横切り、次の目的地へと進むと…………ランニングアセアセダッシュ


【清水谷家の椋(むく)】

公家の清水谷家の屋敷跡のようだ。それはともかく………案内板に気になる事が書いてある上差しカメラびっくりアセアセ

なんと、来島又兵衛がこの辺りで討死したというのだびっくりアセアセアセアセ


来島又兵衛は、幕末の尊皇攘夷派の長州藩士。『遊撃隊』の総督。

元治元年(1864年)、前回の政変で失った長州藩の
失地回復ために激烈に出兵銃を主張し、『蛤御門の変(禁門の変)』の前に上洛し、薩摩藩国父島津久光の暗殺ナイフを計画したが失敗。

一旦長州に戻り、藩主毛利敬親に改めて出兵銃を促した。6月に久坂玄瑞らと再度上洛、7月19日に変が起こると、又兵衛は風折烏帽子に先祖伝来の甲冑カブトを着込み、自ら『遊撃隊』600名の兵を率いて、激戦を繰り広げた。

しかし、この禁裏内の「蛤御門の戦い銃」で、当時薩摩兵の銃撃隊として活躍していた川路利良の狙撃銃で胸を撃ち抜かれたガーンアセアセ

助からないと悟った又兵衛は、甥の喜多村武七に介錯を命じ、自ら槍で喉を突いた後、首を刎ねられて死亡したえーんアセアセ享年48(満47歳)…………。


なお、『禁門の変』『蛤御門の変』の名称は、【京都御所】の門(禁門と呼ばれる)を中心に戦われたこと、中でも【蛤御門】周辺が最激戦地であったことによる。


さらに西に進むとこちら上差しカメラに到着した………ランニングアセアセダッシュ 


【建礼門(けんれいもん)】
平安京内裏の外郭門のひとつ上差しまたは【京都御所】のひとつ上差し

【京都御所】の南面正門。

天皇皇后及び外国元首級のみが通ることのできる、最も格式の高い門とされ、【京都御所】の一般参観時にも開門されることはないが、このように間近で見学目することはできるウインク


『京都検定鉛筆』の過去問にもよく登場していた【建礼門】についに来た口笛

しかし、残念ながら今回ココロが受験した試験問題には出てこなかった笑い泣きアセアセ

さてさて、ココロはさらに西へとてくてく歩き目的地を目指した…………ランニングアセアセダッシュ



続く……………。