さてさて……………
【平安神宮】より徒歩約10分で、ココロが次に到着したのは………
おお〜〜〜〜っ
住宅街の中に、現れたのは………
【後醍醐天皇皇子 尊良親王墓】
京都府京都市左京区南禅寺下河原町
【尊良親王(たかよししんのう)】
鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての皇族・歌人・上将軍。後醍醐天皇の第一皇子。母は二条為世の娘で二条派を代表する歌人の二条為子。
嘉暦元年(1326年)、従兄弟に当たる皇太子邦良親王が急逝したため、現任天皇の第一皇子として、父帝である後醍醐天皇の推薦によって、次の皇太子候補者に選ばれた。
しかし、皇太子候補者にはなったものの、持明院統との政争に敗北し、次の皇太子になったのは量仁親王(のちの光厳天皇)だった
その後は後醍醐後継者の地位こそ、高貴な生母を持ちより政治的資質のある異母弟の世良親王に移ったものの、引き継ぎ後醍醐朝の有力政治家として信任され、元徳3年(1331年)1月には一品親王に叙された。
『元弘の乱』では、一度鎌倉幕府に捕縛され土佐国(高知県)に流罪となるも、同地から脱出し、九州で旗頭となり鎮西探題を撃滅して、父の幕府打倒に貢献した。
さらに、足利尊氏との戦い『建武の乱』では上将軍(名義上の総大将)に抜擢された。父の降伏後も越前国(福井県)で尊氏との戦いを続けるが『金ケ崎の戦い』で高師直・足利高経に敗北し、新田義顕(新田義貞の子)とともに落命
明治時代には恒良親王と共に【金崎宮(福井県敦賀市)】の主祭神となった
【建武中興十五社】のひとつだ
いつかは、参拝に行きたい場所なのだ
軍記物『太平記』巻18の物語によれば、『金ケ崎の戦い』で、新田義顕は自害を覚悟するが、主君の尊良親王には生きて落ち延びることを勧めた。
しかし、尊良親王は爽やかに声を立てて笑うと…
「主上(後醍醐天皇)は帝都へ還幸なさった時、私を元首の将と、そなたを股肱の臣とさせたのだ。いったい股肱なくして元首があろうか。こうなっては黄泉から仇に報いようと思う。…………ところで(自分が宮廷の人であるから武家の作法に疎いが、戦場における)自害とはどのようにするものだったかな。」
と尋ねたという
義顕は溢れる涙を抑えて「このようにするものでございます。」と言うと、正式な作法により堂々と自害した…………。
尊良親王も衣を解いて、雪のような白肌を露わにすると、義顕の作法に倣って自害し、先に斃れた義顕の骸の頭の上に身を重ねて命を共にしたと描かれている
南朝の話に激しく心を打たれるのは、ココロだけだろうか
いつか見に行きたいな
続く……………。