2022年6月23日


この日は、近鉄『桃山御陵前駅』で下車した電車………ランニングアセアセダッシュ


何気に地図を眺めていると、ふと天皇陵の文字が目に入ってきたのだ!!目びっくり

これは行かなきゃ!!ランニング電車アセアセダッシュ

ranmarutenさん!!
またまた伏見にお邪魔していますチューアセアセ


ちょっと迷ったランニングアセアセダッシュけど、そこはJR『桃山駅』のすぐ近くだった。

なんなら、線路沿いで車窓からも見える場所だったチューアセアセ

到着したのは…………ランニングアセアセダッシュ

【光明天皇 大光明寺陵】
【崇光天皇 大光明寺陵】
京都府京都市伏見区桃山町泰長老


【光明天皇(こうみょうてんのう)】
日本日本の北朝第2代天皇(在位:1336年〜1348年)

その即位によって北朝が成立したので、北朝最初の天皇ということになるが、鎌倉時代末期に即位した兄の光厳天皇後醍醐天皇によって即位を否定され、歴代天皇に含まれない北朝初代天皇として扱われているため、光明天皇は北朝第2代とされている。


【崇光天皇(すこうてんのう)】
日本日本の北朝第3代天皇(在位:1348年〜1351年)

現在の皇室と旧皇族11宮家の男系共通の先祖たる天皇であるというびっくり

上差し上差し上差し上差し上差し上差し上差し上差し上差し上差し上差し
ちょっと難しくて理解出来ませんチューアセアセ
また勉強します鉛筆チューアセアセ


北朝天皇で、歴代天皇には含まれないというが宮内庁がきちんと管理されている。

清掃も行き届いてます上差しカメラ


この日は特別暑かった滝汗アセアセ


【大光明寺陵事務所】


ちゃんと事務所もあります上差しカメラ


宮内庁上の陵の形式は、円丘であり【光明天皇陵】【崇光天皇陵】とは同兆域である上差しカメラ


後醍醐天皇の建武の新政から離反した足利尊氏が「湊川の戦いカブトナイフ」で宮方に勝利し、建武3年(1336年)に京都に入ると後醍醐天皇は【比叡山延暦寺】に逃走するランニングアセアセダッシュ
後醍醐天皇が退位せぬまま、尊氏から治天の君に推戴された光厳上皇の院宣により豊仁が即位し(光明天皇)、ふたりの天皇が並び立つ形となった。

光明は兄の光厳の猶子として位置づけられ、光厳は治天の君として院政を始めることになった。光明の即位時には『三種の神器』は後醍醐天皇のもとにあったが、尊氏と和睦すると『三種の神器』と称するものを光明側に引き渡し、光明が唯一の天皇であると認めさせられた格好で幽閉されたえーんアセアセ

その後、12月に吉野に逃れた後醍醐天皇は自らの退位と光明の登位をともに否定し、南北朝体制が成立する。


貞和4年(1348年)10月27日に光明は、光厳上皇の第一皇子崇光天皇に譲位した。上皇になった後の観応2年(1351年)足利氏の内紛を期に、足利尊氏が南朝に帰順、崇光天皇は廃され、南朝による正平一統が行われる。

そして翌年2月、南朝の軍勢が足利義詮を排除して京都を奪還した際に、光厳上皇・崇光上皇・皇太子直仁親王とともに捕らえられる。以後は南朝方により大和国賀名生(奈良県五條市)に軟禁される。


3名の上皇と直仁は正平9年(1354年)3月に【河内金剛寺】に移され、塔頭観蔵院を行宮とされた。

そして、10月になると後村上天皇自らも【金剛寺塔頭摩尼院】を行宮とした。たが、正平10年(1355年)には一足早く光明上皇のみ解放されて京都に返された。
 


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ココロの【金剛寺】ブログ。ご参考にウインク


京へ戻った光明上皇は、以後落髪して仏道に入ったとされる。

康暦2年(1380年)6月24日、崩御。
宝算59。

さてさて、むちゃくちゃ暑いけど、もう少し大好きな伏見の町を散策します…………ランニングダッシュアセアセ

あっ!!

こちらの参道の先に見えるのは、【明治天皇桃山御陵】です上差しカメラ目



続く……………。