さてさて…………


我々は、【上田城】本丸跡に鎮座する神社神社を参拝お願いする…………ランニングランニングランニングランニングアセアセダッシュ


【眞田神社(さなだじんじゃ)神社
長野県上田市二の丸(上田城公園内)

こちらにも、もちろん『六文銭』が上差しカメラ

コインコインコイン
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【上田城】本丸跡に鎮座する【眞田神社神社】は、真田氏・仙石氏・松平氏という歴代の【上田城】城主を御祭神お願いとしている。

しかし、もともとは松平家のご先祖を祀る御宮であり『松平神社(しょうへいじんじゃ)神社』と称していたというびっくりアセアセ


【拝殿】

松平家は、真田氏、仙石氏のあと江戸時代中期から明治の廃藩に至るまで7代160年余りの長きにわたり上田城主だった。

松平家は先祖を徳川将軍家と同じくする松平氏のひとつで、藤井松平氏と呼ばれる。

上田城主となった系統の藤井松平氏の初代忠晴は、隠退後は忠山(ちゅうざん)と号した。寛文9年(1669年)に亡くなられた忠山の御墓所は、京都の【金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)】にあるというびっくり


明治維新の変革の中、廃藩置県により上田藩も廃された。国に接収された【上田城】も民間へと払い下げとなったえーん

そして城跡は、急速に桑園・麦畑などに姿を変えていったえーん


このような情勢の中で、旧上田藩士や旧領内有志より、旧藩主松平氏への報恩のため、初代忠山、二代忠昭、三代忠周(上田入封初代)の御霊璽をあわせてお祀りお願いする神社神社を、上田城跡に建立したいとの声が起こった。
 
この動きは、【上田城】に拠って二度にわたる徳川の大軍の攻撃を退けたカブトムキーナイフという、真田氏の活躍で名高い【上田城跡】を、史跡として後世にまで伝えたいという願いがあってのことでもあった。


御朱印も頂けました上差しカメララブ
はい!!もちろん初となりますチューお祝い

『水無月』バージョンが嬉しい上差しカメラ


そんでもって、テンションの上がったココロは『眞田神社御朱印帳』も購入上差しカメラチュー

「真田の赤備え」に因んで、赤色の御朱印帳をチョイス上差しウインク

素敵でしょ口笛


【上田城】本丸跡の所有者となっていた丸山平八郎の篤志により、その南半分の地が境内用地として寄付され、【松平神社神社】創立願が長野県より許可されたのは、明治12年(1879年)の事だった。

その後、本丸の残りの地も、やはり丸山平八郎から【松平神社神社】付属の公園用地として寄付され、上田の人々の憩いの場として本丸全体が整備されることになった。

丸山平八郎さん、ありがとうございましたお願い


真田氏は上田市の象徴でもある【上田城】を築き、その武略カブトによって【上田城】の名を高からしめた。
仙石氏はその後をうけて、上田藩政を発展させるとともに、関ヶ原合戦語破却されていた【上田城】の復興にもあたった。

これらの先代の城主もあわせて祀ることが、上田城跡守護の神社神社として、また新世代の神社として望ましいのではないか!?という声が先の大戦後に起こった。


【青年真田幸村(信繁)公之像】
後に『日本一の兵(ひのもといちのつわもの)』と呼ばれた真田幸村の上田時代の青年像上差しカメラ

得意の槍で出撃命令を下す若き真田幸村(信繁)の姿をモデルにしている。
 


上矢印上矢印上矢印上矢印上矢印上矢印上矢印上矢印上矢印上矢印上矢印上矢印上矢印上矢印
像の製作者は大阪【安居神社神社】の境内にある「真田幸村公之像」の播磨公次氏であるというびっくり


そして、昭和28年(1953年)に真田氏と仙石氏、さらに松平氏の歴代全城主を合祀して、【松平神社神社】から【上田神社神社】へと改称された。


【真田信繁(幸村)公大兜】上差しカメラ

しかし、かつて市内にあった同名他社と紛らわしいこともあり、初代城主である真田氏の名を冠して、昭和38年(1963年)に【眞田神社神社】と再度改称し今日に至っているという。


さてさて、この辺りは【戸隠神社神社】のような高地ではなく、時間も午後の暑い時間滝汗アセアセ

ほぼほぼ睡眠をとってない、おじさん四人の体力はそろそろ限界に近づき、口数も減ってきているチューアセアセ

『お土産でも買って、そろそろ奈良に帰るとしますか!?チューアセアセ



続く……………。