さてさて………

【戸隠神社神社】を出発した我々は、この日最後となる目的地へと到着した…………車ランニングランニングランニングランニングアセアセダッシュ

なんと言っても、この日は弾丸ツアー車ランニングアセアセダッシュ
はい、我々はこの後、奈良に帰らなければならないのだチューアセアセ


到着したのは…………車ランニングランニングランニングランニングアセアセダッシュ


六文銭が見える上差しカメラ目ラブ

コインコインコイン
コインコインコイン


長野県上田市二の丸にある。


【上田城跡公園】


上田盆地の北部に位置し、千曲川の分流である尼ヶ淵に面していたので、築城当初は「尼ヶ淵城」と呼ばれることもあったという。


北に太郎山、南に千曲川に接し、北側と西側に矢出沢川を引き込んで総構えとし、唯一の攻め口である東側にも蛭沢川や湿地帯などがある。


上田城は、真田昌幸が真田氏当主であった天正11年(1583年)に築城が開始された平城である。

ご存知ないかと思うが、ココロが敬愛する歴史人は楠木正成坂本龍馬真田幸村

その真田幸村の父昌幸の居城だウインク

ココロの本名には、この昌幸から一文字名付けられている。同じく歴史好きな父親おじいちゃんは、真田昌幸から一文字頂いたと言っていた。

本当のところは知らんけどチューアセアセ


甲州征伐で生き残った真田昌幸は、臣従する相手を次々変えたうえに徳川家康についたが、天正「壬午の乱」の戦後処理を巡り対立。天正13年(1585年)の第一次「上田合戦カブトナイフ」で攻め寄せた徳川軍を撃退したムキー


その後に天下人となった豊臣秀吉亡き後に起きた「関ヶ原の戦いカブトナイフ(慶長5年/1600年)」で西軍についた真田昌幸は、連動する第二次「上田合戦カブトナイフ」でも東軍別働隊の徳川秀忠軍をよく防いだ。

本戦で西軍が敗れたため、昌幸は紀伊国の九度山に配流され、翌1601年に【上田城】は徳川軍に徹底的に破却され、堀も埋められたえーんアセアセ


【本丸東虎口の復元櫓門】上差しカメラ

明治以降は、破却や城外への移築が行われて城内には石垣と櫓(西櫓)が1棟残るのみであったというえーんアセアセ

昭和期に、移築されていた本丸の櫓2棟が元の位置に復元され、平成期には櫓門や塀などが木造復元されているびっくりアセアセ

今後も、二の丸の土塁や塀なども復元されることになっているおねがい

結構近年の復元だが『日本100名城日本』に指定されている…………………


が…………………ガーン


油断以外の何ものでもございません笑い泣きアセアセ
『日本100名城日本』のスタンプ帳忘れた笑い泣きアセアセ

次回に宿題を残すこととなったチュー


【真田石】

大手の石垣に巨石を用いる例は多く、城主はその権威を示すために、大きさを競ったという。
【真田石】は、真田信之が松代に移封を命じられた際に、父の形見として持っていこうとしたが、微動だにしなかったという伝承があるびっくり
現在ある石垣は仙石忠政が造ったものであるが、【真田石】に寄せる人々の敬愛の情ブルーハーツがうかがえる伝承である上差し


やはり、お城や御廟がある場所は眺めが良いラブ


復元西櫓かな。
現在は閉鎖されているチュー


『日本100名城日本』スタンプ帳は忘れてチュースタンプは頂けなかったけど、御登城印は頂きました上差しカメラウインクお祝い

そして、我々は【上田城】城内に鎮座する神社神社を参拝お願いすることとした……………ランニングランニングランニングランニングアセアセ



続く……………。