【観心寺】を出発した我々は、この日最後となる目的地へ到着した…………車ランニングランニングランニングランニング

その目的地は、大河ドラマテレビ太平記』や楠木正成には関係性はないのだが………チューアセアセ


到着したのは、聖徳太子の墓所とされる【叡福寺北古墳(磯長墓)】がある事で知られる………


【叡福寺(えいふくじ)】
大阪府南河内郡太子町太子2146


【聖徳廟】の額

開祖は聖徳太子または推古天皇とも、また聖武天皇ともいわれる。


宗派は真言宗系単立で、太子系を名乗る。
【叡福寺】は『上之太子』と呼ばれ、『中之太子』は【野中寺(羽曳野市)】、『下之太子』は【大聖勝軍寺(八尾市)】とともに三太子のひとつに数えられている。


ココロは、『下之太子』【大聖勝軍寺】には、今年5月28日に初参拝お願いしたぞっウインク

あとは『中之太子』【野中寺】だ。
いつか、必ず参拝するぞウインクお願い


寺伝によれば、聖武天皇は生前の推古天皇28年(620年)にこの地を墓所と定めたという。

推古天皇29年(621年)、太子の母穴穂部間人皇女が没するとここ【叡福寺】に葬られる。


翌年の推古天皇30年(622年)には、相次いで没した聖武天皇と妃の膳部菩岐々美郎女が追葬されたと伝わる。

太子の没後、伯母にあたる推古天皇が土地建物を寄進し、墓守りの住む堂を建てたのが【叡福寺】の始まりとされる。


2022年には、没後1400年になるのかな!?びっくり


そして、境内にある『叡福寺北古墳(磯長墓)』には、聖武天皇・穴穂部間人皇女・膳部菩岐々美郎女が埋葬されているとされ、「三骨一廟」と呼ばれる。


古墳は直径約55mの円墳で、横穴式石室をもち、内部には三基の棺が安置されているという。


江戸時代までは、参拝お願いのために石室内に入れたというびっくりが、明治時代になり入場が規制された。

明治12年(1889年)の修復調査の際に、棺は確認出来たが、遺骸は風化して残っていなかったえーんとされている。


社務所では「馬蹄守」があった上差しカメラ馬

馬蹄馬は『U字型が幸運を受け止める』という理由から、幸運の意味を持つという。
古来ヨーロッパでは馬蹄馬を幸運のお守りとして、西欧の都市では多くの民家に古馬蹄馬が飾られていた。

ちょっと話は変わるが、そんな馬蹄馬をUさんがココロに送って下さったラブ


さっそく、ココロ家の玄関に飾った上差しカメラ馬

さらにUさんに聞いた話では、馬馬は人を踏まないって話があるため交通安全のお守りともなるようだキラキラなるほどチュー

Uさん!!ありがとうーーーーっ!!ウインク


御朱印も頂きましたウインク

【叡福寺】の所在する磯長(しなが)は、蘇我氏ゆかりの地であり、聖徳太子の父(用明天皇)と母はともに蘇我氏の血を引いているが、この古墳の被葬者が聖徳太子とすることには異説もある。

ちなみに【叡福寺】すぐ近くには、【伝 蘇我入鹿の墓】があるのだ!!びっくりびっくりびっくりびっくり

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その辺りの話は、ココロの過去ブログシリーズを是非ご参考にウインク

さてさて、この日の全スケジュールをこなした我々は、奈良に帰ることとしたランニングランニングランニングランニング車

そして、次回最終回のディナータイムナイフとフォークシャンパン白ワイン赤ワインへと…………



続く……………。