2020年5月28日……

この日は、家内お母さんが大阪府八尾市に仕事の資料を取りに行かなくてはならなくなったガーンアセアセ

電車電車に乗るのも心配そうチューアセアセなので、久々に県をまたぐ事になってしまうがアセアセココロが車車で一緒に行く事としたチュー


家内お母さんが、用事をしている待ち時間にどこか近くに良い神社仏閣ないかなあ!?と調べていたら…………スマホ

なんと!!びっくりアセアセ

近くに『あの人物の墓』があると言うではないか!!びっくりアセアセ

したがって、今回も『墓マイラー』シリーズとなるウインク

早速……………車ランニング


その場所は『奈良街道』現在の国道25号線に面した八尾市内で一番交通量が多い道路脇にあった………車ランニング


【物部守屋(もののべのもりや)墓】
大阪府八尾市太子堂

背後には小さな塚のようなものがあるだけだ。

車で走ってたら車、見逃してしまうようなイメージだっチューアセアセ


【物部守屋(もののべのもりや)】
古墳時代の大連(有力豪族)であり、有力な軍事氏族である。


物部氏は日本日本に伝来した仏教に対しては、強硬な廃仏派で、崇仏派の蘇我氏と対立した。


用明天皇2年(587年)、用明天皇は病になり、三宝(仏法)を信奉したいと欲し、群臣に議するよう詔した。

物部守屋らは「国神に背いて他神を敬うなど、聞いたことがない」と反対した。蘇我馬子は「詔を奉ずるべき」とし、僧を連れて来させた。物部守屋は睨みつけて大いに怒ったという。


用明天皇崩御後、蘇我馬子は群臣にはかり、ついに物部守屋を滅ぼすことを決めた。

蘇我馬子は、厩戸皇子(聖徳太子)などの諸豪族の軍兵を率いて河内国渋川郡(現・大阪府東大阪市衣摺)の守屋の館に向かった。


守屋は一族を集めて稲城を築き守りを固めた。
その軍は強盛で、入鹿側の軍兵は恐怖し、退却を余儀なくされた。

それを見た厩戸皇子(聖徳太子)は、仏法の加護を得ようと、戦勝を祈願し『勝利すれば仏塔を作り仏法の弘通に努める』と誓った。
馬子は軍を立て直して進軍させた………。

※※※前回の墓マイラー生駒編で行った【椿井城跡】にあった『椿井井戸』と話は点と線で繋がった※※※


そして、戦いの最中迹見赤檮(とみのいちい/一説には元は物部氏一の弓の使い手を入鹿が引き抜いた)が、大木に登って弓を射ていた守屋を射殺したガーン

この物部守屋が葬られた地は「河内鑑名所記」や「河内名所図絵」には、小さな塚上に一本松のある姿が描かれていたという。

明治初期、堺県知事小河一敏が、立派な墓碑を建立。表面には『物部守屋大連墳』と刻し上差しカメラ、周囲に玉垣を作った。


その玉垣が、非常に特徴的だ上差しびっくりカメラアセアセ

崇仏派の蘇我氏に対し、命をかけて国神(神道)を守ろうとし滅ぼされた物部守屋の墓は、全国の有名な神社神社玉垣に囲まれていたびっくり


【大鳥神社神社】【春日大社神社】………


おっ!!びっくり【四條畷神社神社】もあるぞ!!びっくり


【乃木神社神社】の社名も見える!!びっくり上差しカメラ


国道側には【石上神宮神社】【北野天満宮神社】【近江神宮神社】【岩清水八幡宮神社
【伏見稲荷大社神社】…………。

後の蘇我氏とともに、歴史から消滅された物部氏。表の王=天皇家に対し、裏の王=物部氏とも言われる大豪族の首長の墓としては、規模が小さく寂しい気持ちもするが、現在は全国の有力神社神社多数に囲まれ、守られて安らかに眠られていたチュー

他にも近くに見所がありそうだぞっ!!おねがいランニング




続く……………。