さてさて………


【大石神社神社】を出発した我々は、次なる目的地に到着した………車ランニングランニングランニングランニング

ココロは二回目の参拝お願いお願いとなる。

この道上差しカメラを進みランニングあの角を左に曲がれば………


この石段ーーーっ!!ガーンガーンガーンアセアセアセアセアセアセ

改めて凄い石段だーーーっアセアセ

その階段を昇りきった場所にあるのが………


【明治天皇 伏見桃山陵】
京都府京都市伏見区桃山町城山


【第122代 明治天皇】
寛永5年(1852年)~明治45年(1912年) 61歳没

明治天皇は、明治維新という日本史上最大級の変革期を経験した天皇だ。

髭をたくわえた堂々たる風貌で、富国強兵を推し進めた明治時代の日本を象徴する存在だった。


その明治天皇の御陵は、京都市伏見区にあり、すぐ北に桓武天皇陵がある。

奈良から京都に都を定めた天皇と、それから一千年以上を経て、東京に都を移した天皇が隣り合って眠っているのも不思議な縁だ。


京都に御陵を営むことは、明治天皇の『遺言』だったとされる。


しかし、この石段凄いでしょびっくりアセアセ

人々の明治天皇への思いが表現されているようにも感じる。

 
ハ〜〜〜〜っアセアセ  

ハ〜〜〜〜っアセアセ

昇りきったよーーっ滝汗滝汗滝汗滝汗


この地は、豊臣秀吉が築いた『伏見城』の本丸跡なのだ。関ヶ原の合戦カブトの際に落城し、その後は桃の木が植えられたことから桃山と呼ばれた。

 
室町時代、江戸時代の天皇陵はほとんどが仏教の寺院に葬られている。

しかし、明治政府は天皇・皇室に関することは、仏教が日本に入る以前の古式に戻すことを原則としていた。


さすがに巨大な前方後円墳ではなくてへぺろ
天智天皇陵(ココロはまだ未参拝お願いチュー)をモデルに上円下方墳と呼ばれる形だ上差しカメラ

下方部の方形壇は一辺が約60m、上段の円丘部は高さ約6.3m。ただし、天智天皇陵はのちの考古学調査で上部は円形ではなく、八角形であった事が分かったという。


【御陵印】
こちら上差しカメラは、以前ここの『桃山陵墓監区事務所』でいただいたものだウインク

その遺言により、明治天皇の生前から用地が取得され、造営が行われていた。

京都は明治天皇にとって、生まれ故郷であることから、死後はその地に戻りたいと考えられたのか!?

国民からも、崩御の際には「東京に御陵を……」という声も上がったようだ。結局、明治天皇の意思で京都となったが、その代わり東京には【明治神宮神社】が創建された。


【昭憲皇太后  伏見桃山東陵】
いつも疑問だったのが、昭憲皇太后の称号。
何故「皇后」でなく「皇太后」なのか!?!?

昭憲皇太后がお亡くなりになった時、夫である明治天皇はすでに崩御されていた。実子のいなかった昭憲皇太后は、明治天皇の側室が産んだ嘉仁親王(大正天皇)を養子としていたため「大正天皇の母」という意味から「皇太后」と称されていた。

昭憲皇太后が崩御されると、当時の宮内大臣は彼女の追号を大正天皇に上奏する。ところでここでミスがあったびっくりアセアセなんと、宮内大臣が昭憲皇太后の身分を「皇太后」から「皇后」に改めないままで、大正天皇もそれをそのままご裁可してしまったのであるびっくりアセアセ


大正9年(1920年)には、この事が問題となり「皇后」に改めるべきではないか!?と当時の宮内大臣に意見が出された……。

しかし『天皇よりお許しがあったものは、間違っていても変更出来ない………。』などの理由で訂正されることはなかった。

それが現在も続いているというのが真相のようだびっくりびっくりびっくりびっくり

少し理解出来たチュー
なるほど上差しキラキラ星

我々は、明治天皇と言えば……あの方……そのあの方を祭神とする神社神社へと向かう事とした……車ランニングランニングランニングランニング




続く……………。