この日、S夫妻と近鉄奈良駅で10時過ぎに合流し、向かったのは……
あの『蘇我氏』の末裔が宮司を務められている
という……
【宗我坐宗我都比古神社】
(そがにますそがつひこじんじゃ)
奈良県橿原市曽我町1196
住所にまで『そが』の文字が
ココロは二回目の参拝だ
通称を「入鹿宮(いるかのみや)」ともいわれ、古代豪族の『蘇我氏』に関係する神社として知られる。
延長5年(927年)成立の『延喜式』では、【宗我坐宗我都比古神社】すなわち「宗我(=地名)に鎮座する宗我都比古を祀る社」と記載されていた。
創建は不詳であるが、推古天皇の時に蘇我馬子が武内宿禰と石川宿禰を祀る神殿を蘇我村に創建したとする説や、社伝では持統天皇が蘇我氏の滅亡を哀れみ、蘇我倉山田石川麻呂の次男である徳永内供には紀氏を継がせるとともに、内供の子の永末には祖神を祀るための土地を与えて社務・耕作を行わせたことをもって創建とすると伝わる。
【祭神】
宗我都比古神(そがつひこのかみ)
宗我都比売神(そがつひめのかみ)
『蘇我氏』は著名な氏族であるが、その本拠地は明らかになっておらず、宗我都比古神社の鎮座地である大和国高市郡曾我(橿原市曽我町)に比定する説のほか、大和国葛上郡(御所市)や河内国石川郡(大阪府富田林市・南河内郡)に比定する3説が知られる。
この『蘇我氏』の末裔が存在するなんて…
一気に「古事記」や「日本書紀」が一気にリアリティーが増す。
ココロの過去ブログでもあったように宮司さんの苗字は『北西』さん
あれっ『蘇我』じゃないんやーーっ
松塚駅の右手が宗我坐宗我都比古神社の鎮座地です
蘇我氏の本拠地「明日香」から見ると、『北西』の方角にあることが分かるっ
明日香の【石舞台古墳】過去のココロ写真から。
北西の蘇我と呼ばれていた事から、この苗字になったのだと前回参拝した時に推測した。
今回も北西宮司に御朱印を書いて頂いた
そして、優しく穏やかな、まさに学校の先生のような北西宮司に我々は様々な質問をぶつける。
何を隠そうSさんの奥様は『蘇我氏総本家』のファンなのだ興味しんしん(笑)
⭐明日香から見て北西の位置することから『北西』姓になったのか
北西宮司
『日本書紀』などの研究が進むにつれて、蘇我氏の悪者のイメージがさらに強くなり江戸時代に『蘇我』姓を名乗ってはいけない、名字を変えなければならなかった。
現在も『座』を組みこの神社を守る「井上」「北林」「堀川」の苗字を名乗るようになったのです。
藤原不比等の編纂により、蘇我氏は歴史上悪役となる。
暗殺される蘇我入鹿
近年では、蘇我氏の功績を見直す研究もされ日本の礎を気付いた古代豪族との評価へと変わる。蘇我氏の存在を消すために、蘇我氏の功績を架空の『聖徳太子』という人物の功績にすり替えたといった説もある。
そのため、蘇我入鹿=聖徳太子や蘇我馬子=聖徳太子説なども根強くあるのだろう。
⭐この地区の方たちは、談山神社(藤原家)がある多武峰方面へは、縁談があっても決して嫁ぐことはしなかったって話を聞いた事があるんですが、本当ですか
北西宮司
今はほとんどないと思いますが、ここから少し南に【入鹿神社】があるんですが、その地区には実際にそういった話はありましたね。
私が小さい頃も、遠足で談山神社に行ってもその地区の子供たちは、鳥居をくぐることなく、外で待っていました
……………
このようなお話をたくさんさせて頂いた。
失礼な質問があったかも知れないが、宮司は最後まで丁寧な対応して下さった。
小さな神社ではあるが『蘇我氏』の末裔である誇りを脈々と受け継ぎ、守られておられる事を強く感じる神社である。
そんな奇跡のような神社が、奈良にはたくさん現存するのだ
我々は、続いて初代天皇である『神武天皇』が祀られている【橿原神宮】へと向かった
続く…………。