家族と分かれたココロは、トロッコ列車の乗車時間までの間に【宝筺院】を目指したランニングランニング


上差し清凉寺の門前辺り。

「つきあたり  小楠公御首塚の寺」=宝筺院
の石碑が見えてきたニコニコ

清凉寺のすぐ近くに【宝筺院】はある。

しかし、ここはFさんのアドバイスがなければ立ち寄る事はなかったであろう。
Fさんには本当に心より感謝であるルンルン


「小楠公菩提寺寳筺院」とある。
大楠公=楠木正成(くすのきまさしげ)
小楠公=楠木正行(くすのきまさつら)
正行は正成の嫡男(息子)である。


【宝筺院(ほうきょういん)】
京都府右京区嵯峨釈迦堂門前南中院町9-1

平安時代に白河天皇により建立され、善入寺と名付けられる。
南北朝時代になり、夢窓国師の高弟の黙庵周諭禅師が入寺し、室町幕府の二代将軍足利義詮(あしかがよしあきら)の保護を得て伽藍が整備された。

足利義詮が没する(1367年)と善入寺は、義詮の菩提寺となり、義詮の院号に因み寺名は【宝筺院】と改められた。


拝観料は自販機でお支払いだびっくり
ここで御朱印帳を預ける。


上差しこの木戸を開けて入園する。


入れば美しい庭園が目の前に広がるおねがい
好きな空気だラブラブラブ


おそらく(笑)…黙庵周諭禅師と小楠公   楠木正行


一番左に楠木正行像。


さらに奥に進むとココロが訪れたかった場所に……


その場所とは………

南朝の忠臣楠木正行もまた黙庵に帰依しており貞和4年(1348年)「四條畷の戦い」において足利方の高師直・師泰兄弟と戦って敗北した後は、黙庵によってその首級を寺(現在の宝筺院)の敷地内に手厚く葬られた………



楠木正行の【敵】である将軍足利義詮は、正行の埋葬を黙庵から聞き知った後…

「自分の逝去後は、かねてより敬慕していた楠木正行の墓の傍らで眠らせてもらいたい…」
と遺言を残した。

上差し石の柵に囲まれて二基の石塔が立つ。


貞治5年(1367年)足利義詮の死後ほどなく正行の墓(右側:五輪石塔)の隣の墓(左側:宝筺印塔)に葬られたという。


帰りは忘れずに御朱印帳を頂いて。
御朱印でも二人は共に並ぶ男性トイレ男性トイレ

敵将である正行を褒め称え、その傍らに自らの骨を埋めさせた義詮。

これぞ「ヤマトノココロ」なり上差し
その心を是非訪れて感じたかったのだルンルン

楠木正行辞世の歌
かえらじと  かねておもへば梓弓
なき数に入る  名をぞ  止むる

【歌意】
生きて帰ってくることはないと前から思っていたので 亡くなった人として我らの名をここに書き留めておこう

京都にもこんな素敵な場所が、まだまだたくさんあるんだなあウインク


【楠流軍学兵法書】
3000円札束

うーーーんチュー

欲しいなーっ。どうしようかな??チュー……………

んっ??アセアセ

っていうか、トロッコ列車の出発時間が近づいてきたぞーっガーンアセアセ

ココロは炎天下晴れ晴れ晴れかなりの急ぎ足で「トロッコ嵯峨」駅に向かったランニングランニングランニング滝汗滝汗滝汗


娘たちよラブラブパパは必ず出発までには駅に着くからねーーーっアセアセアセアセアセアセ


続く……………