愛と言う言葉の軽薄さ
愛いついて語ることほど不毛なことはない、と以前から言ってきましたが、それにしても巷では、「愛」に飢えているのか、「愛」という言葉が飛び交っているように思います。
「愛と平和」だかなんだか知りませんが、一人の人間が一人の人間を幸せにすることさえ難しいにも関わらず、そんな大それたことが人間にできるわけもありません。
また、ミクロ的にも愛を口走る人間ほど、実は愛など何もわかっていないのではないか、そんな風にも思います。
テレビなどでは「女性は常に愛しているという言葉を欲している」みたいな論調もよく聞きますが、愛ほど言葉にできないものはない、と私は感じています。
もちろん、私も過去には、そういった言葉を発したこともありました。
しかし、それを発したあとの、何とも言い表しようのない虚無感というか、無力感というものを痛感したものです。
結局、愛とは言葉にできない態度ではないか、そんな風に思うわけです。
にも関わらず、「愛してるよ」と言ってもらいたい女に、それに答える男が大勢います。
本当の愛などわかりもせず、表面的に、また瞬間的に満たされればそれでいいとでも思っているのでしょうか?
言葉は確かに社会生活における根幹です。それなくして人間関係は構築できません。
しかしながら言葉には限界があります。その限界を理解してこそ、言葉に重みが出るのではないでしょうか。
言霊などは、そういった次元から生まれたものではないか、そう思うわけです。
にも関わらず、現代社会における言葉は極めて劣化し、アメリカ的な表面上のツールに成り下がっているように思います。
私の持論でもありますが、愛を言葉にする男に、ろくな男も居なければ、それで満たされる女もろくな女ではない、と思います。
もちろん、そこから本当の愛に気づく人もいるでしょうが、そうならずに大半の関係は長くは続かないでしょう。
愛と哀は語源が一緒であると、以前のブログでも話しましたが、別れの哀しみを理解できない愛など、本質的な愛ではない、と私は思うのです。
結局、愛おしいと想う気持ちは、最後は態度でしか表せない、そういうことだと思います。