保守とは何か?
以前のエントリーでも、我が選挙区の後藤祐一が、リベラル保守と自称していたことに私は痛烈な批判をしたのだが、では、そもそも保守とは何なのだろうか、ということを今日は考察したいと思う。
まず、保守と言うのは常に受動的かつ、後追い的である。なぜならば、現状を破壊しようとする改革派が生まれない限り、その出番が無いからである。
言い換えれば、保守とは主義とはなり得ることはない。むしろ、そういったイデオロギーに懐疑的であり、また未来に対しての不確実要素というものに、警戒する態度であるからだ。
かつて福田恆存は保守について「保守派は眼前に改革主義の火の手が上がるの見て始めて自分が保守はだと気がつく」とし、「保守主義はイデオロギーとして遅れをとっている。改革主義に対し、常に後手を引くように宿命づけられている。それは本来、消極的、反動的であるべきものであって、積極的にその先回りをするものではない」と述べている。
しかし現実の日本はどうだろうか。小泉純一郎や安倍晋三のように、保守と呼ばれる政治家が積極的に改革を訴えているではないか。
しかも、本来は決して交わる事の無い改革を是とし、それをリベラル保守などという訳の分からない言葉遊びによって正当化し、あたかも自分は保守ですという面を平気でしているではないか。
保守的であるというのは、何度も言うように、現状に対し、急進的な変化に懐疑的で、あくまで漸進性を重視することだ。
言い換えれば、新しいという価値よりも、昔から慣れ親しんだものを優先し、無制限なものを否定し、節度あるものを重んじる態度であるのだ。
また西部邁は、「保守とは、左右の尾翼の中心でそのバランスを取ることだ」と述べている。
これもまた、急進性を避け、どちらかのイデオロギーに支配されることを拒絶しているとも読み取れる。
しかし、こうした本来の保守は、もはや日本では極めてマイノリティーとなってしまった。
その原因の一つに過去の分断、二つ目に、長年における政治経済の混沌や震災による現状打破願望、さらには個人主義化による理性や合理主義の台頭が上げられるかもしれない。
まず、過去との分断だが、よく戦後70年と区切りをつけて語られることが多く、また安倍首相の掲げた「戦後レジューム」もまさに、戦前戦後を完全に分断した考えそのものだ。
しかしそこに実存した日本人に、戦後も戦前も大きな生き方(文化)の変化など起きるわけもない。
常に歴史はその延長線上でしかなく、分断することなど不可能にも関わらず、それを分断させたことこそ、保守が保守であり得なくなった大きな要因ではないだろうか。(そもそも保守は先人から脈々と受け継がれてきたものを保持するわけだから)
また、20年に渡るデフレによって、我が国の資本主義経済は完全に機能不全に陥ってしまった。
それによる弊害は自殺者などの増大に見て取れるように、人々の心を蝕み、閉塞感を与えたのである。
そこに来てリーマンショックのような世界同時金融危機や、東日本大震災、原発事故が相次いだことが、人々をその状況から打破したい、抜け出したいという願望を強めたのではないか、そう思えるのである。
これはカナダのジャーナリスト、ナオミクラインが新自由主義批判の中で「本来、健全な民主国家ではあり得ない新自由主義が多くの民衆によって受け入れられてしまうのは、様々な社会的ショックによって、安易な打開策に飛びついてしまう民衆心理」と分析し、それをショックドクトリンと名付けている。
まさに、我が国の長引く不況と震災、原発事故によって、日本はショックドクトリンの状態に陥っているのではない。
太陽光発電の買い取り制度(FIT)を原発事故のどさくさに紛れて通し、大もうけを企んだ孫正義や、菅直人はその象徴的存在だろう。
ただ、それはあくまで一側面でしかない。一番大きな問題はナオミクラインも警鐘を鳴らす「民主主義下における新自由主義の台頭と全体主義」にある。
私たちの敵はまさに、この新自由主義であるにも関わらず、保守と呼ばれる政治家達がこぞってそんなイデオロギーのドグマに犯されているのだから笑うに笑えない。
そしてそれを最後に決定づけたのが個人主義ではないだろうか。
市場に任せておけば良い。駄目な奴は淘汰されれば良い。それは自己責任である。
というむちゃくちゃな論理を振りかざし、自由競争を正当化するわけだ。
しかしよく考えてみてほしい。新自由主義のような競争社会というものは、基本として、強者が弱者の所得を奪う行為である。
言い換えれば、誰かが幸福になった影では、誰かが不幸になっているのである。
このようなことを容認する民主主義が、果たして健全な民主主義なのであろうか?私には甚だ理解できない。
そしてそんなふざけたイデオロギーを保守と呼ばれる政治家達がどや顔で「岩盤規制にドリルで穴を開ける!」などと吹聴しまわるわけだから、もう絶望しかない。
しかし救いが全くないわけではない。
それは歴史に学ぶ事である。先に述べたように、新しいに価値基準を置くのではなく、長年の集積による過去からの知恵を借りるのである。
スペインの哲学者、オルテガは「過去は我々に何をすべきかを教えることはないが、我々が何を避けなければならないかは教えてくれる」そう述べているように、私たちは今こそ、過去から「何を避けなければならないか」を学ぶべきである。
そしてそれが多くの民衆の心に入り込むことが出来れば、未来はそれほど暗いものにはならないだろう。
ただ同時にオルテガは「馬鹿は死ななきゃ治らない」とも揶揄している。
そのどちらに転がるのかは、今を生きる私たち次第なのである。
まず、保守と言うのは常に受動的かつ、後追い的である。なぜならば、現状を破壊しようとする改革派が生まれない限り、その出番が無いからである。
言い換えれば、保守とは主義とはなり得ることはない。むしろ、そういったイデオロギーに懐疑的であり、また未来に対しての不確実要素というものに、警戒する態度であるからだ。
かつて福田恆存は保守について「保守派は眼前に改革主義の火の手が上がるの見て始めて自分が保守はだと気がつく」とし、「保守主義はイデオロギーとして遅れをとっている。改革主義に対し、常に後手を引くように宿命づけられている。それは本来、消極的、反動的であるべきものであって、積極的にその先回りをするものではない」と述べている。
しかし現実の日本はどうだろうか。小泉純一郎や安倍晋三のように、保守と呼ばれる政治家が積極的に改革を訴えているではないか。
しかも、本来は決して交わる事の無い改革を是とし、それをリベラル保守などという訳の分からない言葉遊びによって正当化し、あたかも自分は保守ですという面を平気でしているではないか。
保守的であるというのは、何度も言うように、現状に対し、急進的な変化に懐疑的で、あくまで漸進性を重視することだ。
言い換えれば、新しいという価値よりも、昔から慣れ親しんだものを優先し、無制限なものを否定し、節度あるものを重んじる態度であるのだ。
また西部邁は、「保守とは、左右の尾翼の中心でそのバランスを取ることだ」と述べている。
これもまた、急進性を避け、どちらかのイデオロギーに支配されることを拒絶しているとも読み取れる。
しかし、こうした本来の保守は、もはや日本では極めてマイノリティーとなってしまった。
その原因の一つに過去の分断、二つ目に、長年における政治経済の混沌や震災による現状打破願望、さらには個人主義化による理性や合理主義の台頭が上げられるかもしれない。
まず、過去との分断だが、よく戦後70年と区切りをつけて語られることが多く、また安倍首相の掲げた「戦後レジューム」もまさに、戦前戦後を完全に分断した考えそのものだ。
しかしそこに実存した日本人に、戦後も戦前も大きな生き方(文化)の変化など起きるわけもない。
常に歴史はその延長線上でしかなく、分断することなど不可能にも関わらず、それを分断させたことこそ、保守が保守であり得なくなった大きな要因ではないだろうか。(そもそも保守は先人から脈々と受け継がれてきたものを保持するわけだから)
また、20年に渡るデフレによって、我が国の資本主義経済は完全に機能不全に陥ってしまった。
それによる弊害は自殺者などの増大に見て取れるように、人々の心を蝕み、閉塞感を与えたのである。
そこに来てリーマンショックのような世界同時金融危機や、東日本大震災、原発事故が相次いだことが、人々をその状況から打破したい、抜け出したいという願望を強めたのではないか、そう思えるのである。
これはカナダのジャーナリスト、ナオミクラインが新自由主義批判の中で「本来、健全な民主国家ではあり得ない新自由主義が多くの民衆によって受け入れられてしまうのは、様々な社会的ショックによって、安易な打開策に飛びついてしまう民衆心理」と分析し、それをショックドクトリンと名付けている。
まさに、我が国の長引く不況と震災、原発事故によって、日本はショックドクトリンの状態に陥っているのではない。
太陽光発電の買い取り制度(FIT)を原発事故のどさくさに紛れて通し、大もうけを企んだ孫正義や、菅直人はその象徴的存在だろう。
ただ、それはあくまで一側面でしかない。一番大きな問題はナオミクラインも警鐘を鳴らす「民主主義下における新自由主義の台頭と全体主義」にある。
私たちの敵はまさに、この新自由主義であるにも関わらず、保守と呼ばれる政治家達がこぞってそんなイデオロギーのドグマに犯されているのだから笑うに笑えない。
そしてそれを最後に決定づけたのが個人主義ではないだろうか。
市場に任せておけば良い。駄目な奴は淘汰されれば良い。それは自己責任である。
というむちゃくちゃな論理を振りかざし、自由競争を正当化するわけだ。
しかしよく考えてみてほしい。新自由主義のような競争社会というものは、基本として、強者が弱者の所得を奪う行為である。
言い換えれば、誰かが幸福になった影では、誰かが不幸になっているのである。
このようなことを容認する民主主義が、果たして健全な民主主義なのであろうか?私には甚だ理解できない。
そしてそんなふざけたイデオロギーを保守と呼ばれる政治家達がどや顔で「岩盤規制にドリルで穴を開ける!」などと吹聴しまわるわけだから、もう絶望しかない。
しかし救いが全くないわけではない。
それは歴史に学ぶ事である。先に述べたように、新しいに価値基準を置くのではなく、長年の集積による過去からの知恵を借りるのである。
スペインの哲学者、オルテガは「過去は我々に何をすべきかを教えることはないが、我々が何を避けなければならないかは教えてくれる」そう述べているように、私たちは今こそ、過去から「何を避けなければならないか」を学ぶべきである。
そしてそれが多くの民衆の心に入り込むことが出来れば、未来はそれほど暗いものにはならないだろう。
ただ同時にオルテガは「馬鹿は死ななきゃ治らない」とも揶揄している。
そのどちらに転がるのかは、今を生きる私たち次第なのである。