私徳と公徳と価値観 | ひより

私徳と公徳と価値観

議論しているとよく、貴方と私とは価値観が違うと言われる事が多々あります。


しかしながら私は私徳の部分、例えば私は女優の小林涼子ちゃんが好みで、貴方は佐々木希ちゃんが好みというのは、確かに価値観の相違であり、個々に認めるべき多様性であって、そこに他者が介入し、押し付ける事はしてはならないと思います。


と同時に,私たちは個人であると同時に日本国民という公人でもあるわけです。ですから当然、公徳というものも考えなければなりません。



この公徳は国家、公としての徳ですから、価値観が違うからと言って、それぞれバラバラなことをやったり考えたりしていたりしては、国益を損ねてしまいます。



しかし残念なことに、近年は個人主義が横行し、公徳を持った人々が激減しているように思えます。


その結果、本来は、公徳で考えるべき事象を、私徳での価値観に当てはめ、それこそバラバラな意見は、個人の思想の自由というような考えになってしまっています。



これは明らかに自由をはき違えているわけです。



このような事態を放置すれば、それこそ公徳どころか、国家の強靱性は失われ、私徳さえもままならなくなるでしょう。




そこを理解できないミクロ脳(私徳のみ)の人間達にとっては、私の話は、単なる一つの考えと切り捨てるのでしょう。




しかし、本来、国家の方向性というのに個人の価値観というものを介入させることは極めて傲慢であり、危険な思想であって、小林涼子ちゃんが好きだとか佐々木希ちゃんが好きだとかいう次元の問題ではないのです。




言い換えれば、私徳に関しては、個人の価値観が尊重されるべきであって、公徳に関しては、個人の価値観を超えた協調と団結が必要であると言うわけです(そのために議会制民主主義があるのです)


もちろん、私徳と公徳はときとして相反する場合もあります。


しかしながら、あくまで、国家があって、個人が尊重されるわけで、その国家なくして個人が尊重されるようなユートピアなど存在しないのが現実であって、その優先順位は明らかに国家の自立であることは疑いようがありません。



ということは、一時的には相反しても、最終的にはその個人の私徳にも繋がってくるということなのです。



このような長期的視野と、マクロ的視点(公徳を考えるには必至)がなく、目先の小さな視点であたかも公徳を考えているようなフリをする輩は、公徳を私徳的価値観で決定してしまうわけですから、議論の余地もありません(結果、価値観が違うといって逃げるのです)



議会や議論というのは、そもそもヘーゲルの弁証法のように、互いの意見をすりあわせながら、より矛盾がなく、メリットがデメリットを上回っている良い案を導いて行くためのものであって、価値観が違うと片付けてしまうことは、議会制民主主義や議論の否定なのです。



また、私徳、公徳問わず、それらには非合理性があります。とくに国家には安全保障という平時には極めて非合理なものを保持していなければなりません。



例えばエネルギーやインフラ、防衛、食料などです。これらは確かに平時にはコストパフォーマンスが悪いですが、有事のときの被害を最小限に抑え、国家の存続をさせるという意味においてはこれ以上無い大事なものです。



これらを私徳の観点から捉え、競争原理などを導入させてしまえば、平時には儲かっても、有事には大損するはめとなります。



これこそが私が良く引用するニーチェの言葉「合理主義ほど非合理的な物は無い」ということに繋がるわけです。



こういった観点が欠如し、すべてを合理のもと動かそうとするのが新自由主義(新古典派経済学)であり、グローバルリズムの正体にも関わらず、一般国民の多くがそれを信じてしまっているのだから、公徳など得られるわけもありません。



公徳無き世の中の結末を見たくはないですが、どうやらそういう足音が、もう間もなく聞こえてきそうです。